2014

珍しく師走に降った大雪に、岐阜城下もすっぽりと白に埋まっていた。早朝の丹羽邸からは炊事をする竈の煙が細く上がり、門構えの前には明かり取りの篝火が赤々と燃えていた。
障子から透ける光がいつもより幾分か青みがかっている、目を覚ましたnameは思った。昨晩は大層冷えたから、もしかしたら雪でも降ったのだろうか。しん、と静まり返った外の気配に耳を澄ませば、隣でまだ眠っている長秀の寝息がやけに大きく聞こえてくる。そのあまりの穏やかさにnameは唇を綻ばせるのだった。
夫を起こさぬようにそろりと布団を抜け出すname。静かに襖を開ければそこは眩いばかりの銀世界が一面に広がっていた。明け方の空に立ち込める鈍色の雲を通して地上に降りた光に照らされて、柔らかく降り積もった雪は淡く青く発光している。そこにはらはらと絶え間無く舞い散る牡丹雪に目を奪われて、nameは暫くの間立ち尽くす。風がひと吹きして、彼女は我に返ると身を滑らせて後ろ手に襖を閉めた。長秀さまを起こしていないといいけれど。は、と息を吐けばそれは白い結晶となってきらきらと輝いた。
突然隣にあった気配が消え、そのあとを追うようにしてnameの熱が消えていった。暖かく心地の良い眠りから覚めた長秀は、しかし起きることはせず、nameを引き止めもしなかった。
夜の名残を影に匂わせ襖を開けるnameの背中を、息を潜め、薄目を開けてじっと眺める。か細い背中が吹き込んだ雪混じりの北風に、ぶるりと震えるのが彼の目に見て取れた。
渦を巻いてnameの息が朝に紛れ、そして小さな手が音もなく襖を閉めてしまえばまた部屋の中には静寂が戻った。
長秀は嘆息する。風邪をひいたらどうするつもりなのかと。部屋の中がこれほど冷えているのであれば、雪降る外は一層強く冷え込んでいるだろうに。そこへ薄い夜着のまま、しかも裸足で出て行くなど。
慎み深く内気な彼の妻が時折見せる、あどけない童のような一面を長秀は愛する一方で、内心気が気ではないのであった。
暫く時間をおいても一向に戻ってくる気配のないnameを心配し、長秀はむくりと布団から起き上がると、枕元に畳んで置いてあった羽織を手にして襖を開けた。
草履を履いて庭に下りたnameが、南天の木に止まった雀にそろそろと手を伸ばしている。白い夜着から覗く手は、その生地よりも白く、むしろ足元に広がる雪ほどに青かった。
案の定雀は彼女の手をすり抜けてゆく。羽音を立てて飛び立った雀は南天の枝に積もった雪をはたはたと落とし、そこからはたわわに実った鮮やかな冬の赤が顔を出す。
つやつやと光る南天の身に手を添えて、「かくとだに、」と歌を口遊むnameに、長秀は声を掛けることを忘れて彼女の姿を無言で眺める。しかしその先をnameは口にせず、雪の上でまるで砂浴びをするように羽を広げている雀に小さく微笑んだ。
遠くで一番鶏が声を上げれば、滲むような朝日が彼方の山の端から顔を出す。合わせた両手を口元に当て、はぁと息を吐いたnameは目を細めて朝日を眺めるのだった。
もうそろそろいいであろう。長秀は悴み始めた指先を見て思う。

「name、」

呼べばnameはきょろきょろと辺りを見渡し、背後の濡れ縁で背中を丸めている長秀の姿を見つけるや否や驚いた表情を浮かべ、そして走り寄る。
「走るでない」と長秀が言うのとnameが脚をもつれさせたのはほぼ同時だった。双方「あ、」と言って視線が交わった。乾いた音とともにnameが厚く積もった雪に埋れ、珍しく慌てた長秀は下履きもはかずに庭に飛び出しnameを雪から助け起こす。

「走ってはいけないと、いつも言っているであろう」

「申し訳、あり…っくしゅ」

鼻先に雪をつけたnameはくしゃみを一つすると、着物についた雪を手で払う。黒髪に白く乗った淡雪を、髪を梳くようにして払い落とす長秀に身を任せてnameは目を閉じた。ふわ、と肩に羽織を掛けられた感覚に目を開けたnameの手を取ると、長秀は足早に庭を後にする。
そこで彼が裸足であることに気が付いたnameは慌てて自分の履いていた草鞋を脱ごうとするも、制されるどころか横抱きにされて寝屋へと運ばれてしまうのだった。

「長秀さま、お足が…」

「構わぬ」

「何故打掛も羽織らず外に出る」

ゆっくりと布団の上に降ろされたnameは彼の強い眼差しに言葉を詰まらせる。ただ、雪が綺麗だから庭に降りただけだったのだ。それをまさかこのように問い詰められるとは思ってもいなかった。ゆるりとしている何時もの視線と打って変わって一点を射抜くようなそれに、自分はひどい間違いをしでかしてしまったような気持ちになって、nameはただ「お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」と蚊の鳴くような声で言うのだった。
俯く彼女を前に長秀は「そうではない」と首を振る。そっと触れただけで倒れてしまうような、か細く儚げなnameを思う気持ちばかりがわだかまるのだ。自分を気遣い、慕い、支えようと必死になっている我が妻に、この思いを伝える術を自分は持たない。長秀は思う。触れるだけで満たされれば、どれだけいいだろうか。
しかし、先ほど見た光景、雪の陰から現れた南天の実、あれのなんと赤々しかったことか。彼はあの一幕に己を見たような気がしていたのだった。
そしてnameが口遊んだ「かくとだに」の歌に、彼女の細やかな声以外の音は彼の耳には入ってなどいなかった。事実、全ての音は雪に吸い込まれ存在していなかったのだけれど。
不安げに揺れるnameの睫毛、その先についた水滴は先ほどの雪だった。指先でそれを摘まむようにして拭うと、長秀は妻を抱き寄せる。肌蹴た着物の裾から脛にあたった長秀の足先の冷たさに驚いたnameは、咄嗟に彼の足を手で包んだ。彼女の手もまた冷たいのだが、長秀のそれよりはまだ温かい。彼は自分の足の甲に置かれたnameの手をそっと取り、「燃ゆる思いを」と、ぽつりと呟いた。
その言葉にハッとして顔を上げたnameは、思いがけない長秀の言葉に「聞いていらしたのですか…」と恥ずかし気に頬を染める。よもや心の内をあてた歌を聞かれていたとは知らず、あの時自分がどんな顔をしていただろうかと必死に思い出そうとするも、nameの脳裏には赤い南天の実ばかりが蘇るのだった。
仄かに気色ばんだ頬に、冷たい足とは対照的な熱をともした手が触れる。ごわついた手の感触に、胸の奥がつかえたように苦しくなった。

「長秀さま、あの…」

言いかけたnameの瞳を長秀が覗く。戸惑い、躊躇いがちな仕草から滲む彼女の熱を掬うようにして髪に手を伸ばした。艶めいた黒髪の隙間から、雪の名残が部屋に溶けてゆく。

「そなただけの身体ではないのだ」

「……」

額にかかった御髪を耳にかけ長秀は言う。はい、とnameは頷いた。ゆっくりと横たわった褥に広がる髪はまるで、彼方に聳える伊吹山の雪解けを告げるせせらぎの如く、つやつやと雪明りを寝屋に散らせて輝くのだった。雪解けにはまだ早い、師走の日の出来事。

【さしも草】
- ナノ -