かつては皆迦陵頻伽のように翼をもち自由に空を飛び回っていたのかもしれない。
人間は罪深い。底を知らぬ強欲に怒った神が彼らの翼を焼いたとしても不思議ではない。私は自分の手を見ながら翼の名残を探す。けれどそんなものはどこにも見つけられないのだった。飛ぶこともできず、囀ることもできず、私に出来る事は翼の代わりに与えられたこの両手で刃を奮うことだけだった。
私は言葉を持たなかった。幼き頃は声を出し他人と会話を交わしていたけれど、ある時を境に私は心の中に声を閉じ込めた。
風を感じ、雨の匂いを受け、朝露に触れる。夏になれば川で野菜を洗い、冬が迫れば村人総出で稲を刈った。優しい両親、よくしてくれた村の人々。私の周りに広がる世界はどこまでも美しかった。
けれどその美しさは呆気なく奪われた。戦で終われた落人たちが女子供を総攫い、止めに入った男たちは皆殺された。かろうじて生き延びた人々も家々に放たれた火によって焼け死んだ。私はたった一人の生き残りだった。目の前で流される血。耳を劈く断末魔。肉の焦げる臭い。地獄絵図の如きその光景を、成す術もなく身を隠した地蔵堂の陰から眺めていた。見たくなんてなかったけれど、私の瞼は閉じてくれなかった。ただひたすらに、涙だけがとめどなく流れていた。
どれぐらい時間がたったのだろう。人の気配もなくなり、私は無残に焼け焦げた村を彷徨った。誰もいない。死人しかいない。上空をぐるぐると鴉達が旋回していた。焼け潰れたかつて自分の家だった物。その傍に腰を下ろす。蝋燭の火を吹き消すより容易く奪われた。何故奪われた。弱いから、奪われた。力が欲しかった。その時、村の南から人の気配が近づいてきた。残党狩りにしては遅すぎる、しかし落人の一味にしてはあまりにも身なりが整いすぎている。その中でも一際目を引く長身痩躯の男と、その隣を歩く自分よりも幾らか幼い男の子。何かを話しながら焼け焦げた家々を見て回っている内に私の姿に気が付いた。
「おやおや、これはこれは」
「お前、ここの村のもんか?運強いのな!」
銀色の長い髪を風に靡かせながら男は私を検分する。前髪をちょんと結んだ少年は、頭の後ろで腕を組んだまましゃがみ込んで私の顔を覗き込む。
「もう少し来るのが早ければよかったのですが…」
「皆やられちまったんだな」
辺りをぐるりと見回して少年は言う。
「貴女、行く当てはあるのですか」
「……」
「おい、聞いてんだろ、答えろよ!」
答えようとしたけれど、私の喉は枯れていた。喉からはむなしい風音しか出てこなかった。そんな私を見下ろして銀髪の男は憐みのような目を向けた。私の背中を弓身で叩く少年を男は大きな鎌で退けながら、私の目線に視線を合わせる。覗き込んだ眼は夜空の果てよりも遠く、すぅっと全身の血が冷えるような錯覚に私はぶるりと身震いをした。長い指が私の頬を撫で、輪郭をなぞり、喉元に触れる。
「声が、出ないのですね」
おいたわしい。そう言った男の口の中に潜む暴力的な赤い舌に目を奪われた。生血でも啜ったのかというほどに鮮やかな赤は、ほの白い肌と銀の髪に映えて一層顕然と私の目に焼き付いた。皮膚に触れているだけだというのに、男の指に気道を直接触れられているようだった。銀の髪から太陽の光が零れて私の足元に落ちてゆく。僅かに、指先に力が込められた。ほんの微細な力だった。だというのに私の持つ全ての力よりも、その些末な彼の力の方が勝っていることは明らかだった。私は無力だった。この男の指一本にすら殺められてしまう程に。
「光秀、何やってんだよ。信長さまが待ってるんだからさっさと帰るぞ」
「ふふ、お黙りなさい。その口を縫い付けますよ」
「やれるもんならやってみろよ!」
「子供の相手は疲れますね。その点あなたは…」
頤を上向きにして私を見下ろす男の手首を掴む。おや、と言った男は薄い唇を歪めて笑みを浮かべた。
「いいでしょう、おいでなさい」
「はぁ?!まさかこいつ連れて帰んのか?」
「ええ、蘭丸とは違って煩くもないですし」
「信長さまに怒られても知らねーからな」
「ああ、まだ名前を聞いていませんでしたね」
私から手を離した男は落ちていた棒切れを私に差し出す。それを受け取り地面にnameと書いて指差した。
「name、ですか。いい名ですね」
「悪趣味でやんの」
そう吐き捨てるように言った少年は駆けて行き、ひらりと馬に跨った。
「さぁname、参りましょうか」
差し出された手を取る。それは人を殺める手とは思えぬほど白く美しい手だった。
「悔しいですか、悲しいですか、憎いですか。凄艶ですよ、貴女のその目は」
そう言って赤い舌を覗かせると男は付け足すようにして「私は明智光秀という者でして、ふふ」と、遅ればせに名を名乗って妖しく笑んだ。
「name、何をぼんやり見ているのです」
気配もなく現れた光秀さまは地面にしゃがんだ私の背後に立って声をかける。目の前には凄惨な光景が広がっていた。敵も味方もあったものではない。
地に落ちる直前の夕日に照らし出された野原はもはや若草の名残など何処を探しても見つけることはできなかった。滴り落ちた夕日の雫に赤く染め抜かれた視界。ぬるい風はたっぷりと血の匂いを孕み、地を這うようにして私の鼻腔に忍び込む。拭っても拭いきれないこの匂い。私と光秀さまを繋ぐ匂い。
「貴女も強くなりましたね」
背後から首筋に両手が添えられる。戦終わりの光秀さまの手は驚くほどに温かい。冷たい鎌の柄を握り、空っ風に吹き荒ばれてなお、熱い血潮が渦巻いている。いつもは真夜中の月のように冷々としているというのに。
殺すことでしか生を感じられない光秀さまの背中を私は守る。愛されたいと訴えるその背中は私が思っているほど広くはなかった。
奮いなさい。光秀さまはあの日私にそう言った。貴女の刃が何処に向かうか、私は楽しみにしています。囁くように言ったその様は月魄そのものだった。
返り血は既に乾ききっていた。血を拭う暇さえ惜しみ戦場を駆ける私をも狩らんとする勢いで鎌を振る光秀さまの視線の先には何があるのか。
破滅の黒を切り裂くように一閃が空を断つ。飛び散る血飛沫を全身に浴びながら仰け反り嗤う彼の姿を思い出しながら、私は気怠い身体で立ち上がる。
伸ばされた手を取れば伝わる熱。声も言葉も必要ない。この正直な熱だけが真実だった。生きとし生けるものはそれぞれが担う役割を果たせばいい。私に歌は必要なかった。空を飛ぶ羽も。この二本の腕さえあればいい。狂気に舞うあの方の傍に在れるのであれば。
かつての記憶は深い朝靄の中で朝日に輝いている。けれどその光景は眩しすぎて、もう私の目では直視できないものだった。眩しさに目が慣れることは決してない。その代り、するすると忍び寄る夜の闇には驚くほど容易く目が慣れるのだ。
光秀さま。心の中で私は呼ぶ。なんですか。光秀さまは答えてくれる。
「戻りましょう、陽が暮れます」
あの日と同じように差し出された手。変わることのない美しい手。美しく、そして恐ろしく不完全な。
長い影が二つ、赤い大地に少し早い夜をもたらした。
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