2014

寺小姓として観音寺に奉公していた佐吉にくっついて回る少女がいると聞いた村人達はひどく驚いた。物好きな者がいるものだと。この地の生まれだというのに村の誰とも馴染まず、寺に奉公に出されてからも、その世を眇めた目で見るような彼の態度は一向に変わることはなかった。一方芯の真っ直ぐ通った元来の生真面目さ故、勉学と寺仕事は日々真面目にそつなくこなしていた佐吉は住職からは大層可愛がられており、そして彼だけが佐吉にとって唯一の理解者であった。ただ一人、nameを除いては。
nameという少女もまた村人たちからはあまりいい目で見られていなかった。浅井に仕えていた両親が死に身寄りのなくなったnameは親戚中を盥回しにされた挙句にこの寺の前に捨てられた、いわば孤児であった。門前に蹲っていたnameは痩せこけ、野良犬にすら同情されるほどだった。そんな彼女を哀れに思った住職は以来彼女をこの寺に住まわせ身の回りの世話を何かとさせていたのであった。

そんなある日、佐吉がこの寺にやってくる。nameに住職が佐吉を紹介し、佐吉は刃のように冷たい瞳でnameを一瞥すると、下げたか下げないかもわからぬような礼をした。そんな彼の様子を微笑みながら見ていた住職は「わからないことがあればnameに聞くとよい」と言って奥へと姿を消してしまった。「貴様になど頼らん」とでも言いたげな視線をnameに一瞬送ると佐吉は箒を手に、さっさと境内へと降りて行ってしまう。そんな彼の薄い背中を見送りながら、nameは無言で立っていた。
明くる日から佐吉のいるところにnameあり、とでも言わんばかりにnameは佐吉について回った。正確には少し距離を取り佐吉の様子を観察している、と言った方が適切かもしれないが。佐吉が文机に向かっていれば畳に寝転がりながら眺め、庭を掃き清めていれば傍らに生えた木に登り眺め、廊下の雑巾がけをしていれば邪魔にならぬよう隅で小さくなりながら眺め。始めのうちは気悪がって邪魔だ去ねと怒鳴り散らしていた佐吉も、nameが無害であると分かると取り立てて邪険に扱うでもなく、かといって親しく話すでもなく、互いに適度な距離を保って接するのであった。
nameも佐吉も口数が少ない子供であった。口を開いてもろくなことがないとわかっていたからなのだが、それを周りの同じような歳の子供たちは生意気な奴らだと小憎らしく思い、大人たちは子供らしさに欠けていると薄気味悪がった。住職に頼まれて使いに出た二人に暴言と小石を投げつける者も少なからずいた。幼さは純粋な悪意なのだ。悪気はない。ただ、異質な者に対する排除の気持ちがむき出しとなって二人に向いてしまっただけのことなのだ。
そうして投げつけられる悪意に身を晒し、二人はともに年月を重ねていった。時間にして数年のことであるが、その数年の内に二人の間に芽生えた絆は何物にも代えがたいものとなっていた。勿論そのことに二人は気づかない。ただ、傍にいて当たり前の人間が出来た、それは双方にとっておそらく、大変喜ばしいことだった。
石や虫を投げつけられているnameを佐吉は守り、佐吉が村の子供に酷く痛めつけられて帰ってくればnameは心を込めて彼の手当てを行った。相変わらず言葉が交わされることは少なかった。しかしそれは彼らの間に言葉が不要なだけであり、言葉を介することによって本心がいくらかねじ曲がって相手に伝わることを恐れたからだ。
何も信じるものかと心に纏わせた鎧の隙間を掻い潜って、nameは佐吉の一番柔らかな場所に根を張った。佐吉もまた同様に、頑なに世界を拒むnameの心に寄り添う唯一無二の存在なのだった。似た者同士の二人は、互いの魂のある部分を知らず知らずの内に共有しながら成長をした。




「佐吉、お殿さまがね、きてるんだって」

「知らん、私は忙しいのだ」

はっはと息を切らしながら縁側に手をつくnameに、書見台の本から目を上げず佐吉は言う。nameは草鞋を脱いでいつものように佐吉から少し離れて腰を下ろすと畳の上に仰向けになった。

「name、すまんが使いを頼まれてはくれぬか」

「いま帰ってきたところなのに!」

部屋に入ってきた住職に又しても使いを頼まれ頬を膨らますnameは「佐吉が行けばいいのに」と小さくつぶやきながらも「はあい」と素直に返事をする。心を許した者だけに見せるあどけない表情で。草鞋を履きなおしたnameの背中に向かって佐吉が声をかける。

「気を付けて行け」

ほんの僅かな変化。寺の門をくぐった先に起こり得る出来事を思って強張っていたnameの背中が、佐吉のその一言によってふっと和らいだ。住職から手渡された風呂敷の持ち手をぎゅっと握ると、nameは満面の笑みを浮かべて「うん」と大きく頷いた。駆けてゆくnameの背中が門の向こう側に消えるまで、佐吉はしばらくの間本から視線を外して外を眺めていたのであった。

案の定途中で件の苛めっ子達にちょっかいをかけられていたnameは、すっかり遅くなってしまったと泥で汚れてしまった頬を手の甲で拭いながら寺への帰り道を全力疾走する。早く佐吉に会いたいと思った。泥団子を投げつけられようとも、己の身に謂れ無き事を酷い言葉で罵られようとも、nameの心の中では佐吉のかけてくれた言葉が始終温かい熱を放っていた。冷たく荒れ狂うような風から必死にそれを守るようにして、nameは必死に地面を蹴った。
滲んだ太陽は赤々と燃え、今にも山際に落ちていきそうだった。茜色の空には転々と染みのように烏が何羽か群れていた。弾む息を整えながら門をくぐれば、なにやら境内がいつもとは違う緊張感で満ちていることに気が付いた。何事かと思い、庭の隅に生えた松の木の陰に身を隠すと、nameはそうっと顔を覗かせ辺りの様子を窺った。
何足かの草鞋が並んでいる。そして中途半端に開いたままの障子の向こうで佐吉が平伏している姿がnameの目に飛び込んだ。いったい何事なのだろうかとnameの心の臓が早鐘を打ち始める。ここまで走り切ったのとは別の、胸の内側を冷水が伝うような嫌な動悸の仕方だった。佐吉の向かいに誰か知らぬ者がいるのは明らかであり、あの佐吉が大人しく頭を下げているだなんて只事ではない。佐吉の背後から伸びてきて彼の頭を撫でたのは住職の手である。その手に倣いゆっくりと佐吉が顔を上げる。その頬はnameがこれまで見たことのないほどに朱が差している。俯き加減の瞼を縁どる彼の長い睫の震えさえnameには見て取れた。
佐吉の向かい側から大きな手がぬっと現れるのを見てnameは思わず悲鳴をこぼしそうになる。もしかしたら佐吉があの大きな手の持ち主に対し無礼を働いてしまい、丁度まさに今、頬を張られるところなのではないか。あんなに大きな手で頬を叩かれてしまったら、佐吉の首の骨が折れて死んでしまうかもしれない。地に倒れ伏した色のない佐吉を想像し、nameは全身の力が抜ける思いだった。しかし躊躇している暇はない。がたがたと震える足を叱咤してnameは松の木の陰から飛び出すと一目散に走り出す。そして草鞋を脱ぐことすらせずに畳の上に転がるようにして上がると佐吉を庇うようにして正面の男の前に立ちはだかった。
叩かれる、そう思いnameは歯を食いしばりぎゅっと目をつぶる。しかしいつまでたっても拳は飛んでこない。恐る恐る瞼を開けると、山のような大男が不思議そうな顔で自分の方を見下ろしているではないか。ひい、と今度こそ堪え切れずに悲鳴を上げたnameはこの場から逃げ出したくなるも、小さな拳を痛いほどに握って声を絞り出す。

「さっ、佐吉をぶたないでください!」

「打つ?」

「name、下がれ!」

「佐吉、なんで…」

「これこれ、name」

どうにか振り絞った嘆願に、目の前の大男は困惑したような表情を浮かべながら差し出した手をゆっくりと降ろす。それを見てnameは一先ず危機は脱したらしいと胸をなでおろした。しかし慌てた様子の佐吉に小袖の袂をぐいと引かれる。次いで住職がほっほと愉快そうに笑いながらnameの頭を撫でると「秀吉様、どうかご無礼をお許しください」とname共々頭を下げる。訳が分からず住職にされるがまま畳に額を擦り付けるnameと、「申し訳ありません」と同様に平伏した佐吉。秀吉と呼ばれた男は少しだけ肩を竦めて「構わぬ」と言った。その背後からクスクスと笑い声が響くので、不思議に思ったnameは顔を上げて秀吉の脇を覗き込む。そこには唇に紫を引いた、美しい白髪の男が一人立っていた。彼は顎に手を当て静かに光る聡明な目でnameをしばらく見つめると、自分から目を離せずにいるnameに向かって柔らかく双眼を細める。
いったいこの二人は誰なのかと、一人話についていけないnameにようやく住職の口から事の顛末が話された。

「というわけで、佐吉は秀吉様にお仕えすることのなったのじゃよ」

「彼はとても利発だ。この僕が言うのだから間違いはないよ」

白髪の男、もとい竹中半兵衛はにこりと微笑みそう言った。「そうなの、佐吉?」とnameがまだ信じられないような気持で佐吉に尋ねれば、緩みそうになる唇を無理矢理引き結んだ佐吉は静かにひとつ頷いた。

「よろしくね、佐吉くん」

半兵衛の手が佐吉に差し出される。その手を佐吉が掴もうとしたその時だった。

「佐吉を、…佐吉をつれていかないでください!」

またしても握手を拒まれた佐吉が「name!」と声を荒げてnameの肩に掴み掛ろうとする。佐吉と半兵衛の間に通せんぼのような格好で立つnameは今にも泣きだしてしまいそうだった。大なり小なりの厄介事は数え切れぬほどあったにもかかわらず、滅多に泣くことなど無かったnameの見せた久々の表情に佐吉はその後の言葉が上手く紡げなかった。
nameにしてみれば、これまで兄弟同然、いやそれよりももっとずっと深い場所で魂を分け合うようにして育ってきた佐吉なのである。彼が隣にいない日々を想像しただけで胸の内側から不安と悲しみが渦を巻いたような熱がわっと湧きあがり、それはあっという間に涙となってnameの大きな瞳から溢れ出す。name自身も泣くことを予想していなかったのか、一瞬驚いたような表情を浮かべて、そして己の目から出た涙が頬を伝い顎から滴り落ちるのを見てしまえば、涙は後から後から際限なく流れ出る。
おねがいします、おとのさま、どうかさきちを、さきちを、つれていかないで。涙を小さな手の甲で拭い拭い口にするnameは、村の者から疎まれるような無口な子供などではなく、年相応の泣き方をするひとりの女童であった。涙と鼻水で濡れた桜貝のような爪が、ふっくらとした指の先で光っている。べそをかいているnameの背後で、佐吉は成す術もなく彼女の着物の裾を掴んだ手に力を込めた。
nameも事の重要性は十分に理解していた。一家の疎まれ者として寺に預けられた次男である佐吉を、かの秀吉と半兵衛が直々に召し抱えようと申し出ているのだ。この千載一隅の好機など今を逃して他にある筈もない。しかし、それを押してでもnameは佐吉と離れることなど有り得ないのだった。
畳に額を擦り付けようとしたnameの両脇に手を差し入れて、半兵衛がnameを抱き上げる。突然ふわりと身体が浮いて、何事かと驚いたnameは顔を上げ辺りを見回した。

「だったら君も来ればいい」

「えっ?」

「佐吉くんと、君も一緒に来ればいい。そうすれば離れ離れにならないだろう?」

佐吉くんもそう思わないかい?と半兵衛に尋ねられ、しかしその有無を言わさぬような強い視線に佐吉は「はい」と居住まいを正して頷くことしかできなかった。

「まさかあの秀吉の前に立ちはだかる子がいるとはね。たまには足を伸ばしてみるものだね、秀吉」

「…うむ」

なにか釈然としない表情で頷く秀吉であったが、確かにこの背高で強面の大男の前に立ちはだかる事など大人の男でもそうそう出来る事ではないだろう。小さな少女の勇敢ぶりには秀吉も些かながら驚いているのであった。よいしょ、と言ってnameをきちんと抱えなおした半兵衛は、彼女の眦に残っている涙を指先で払ってやると住職に向き直り、佐吉とnameの両名をこちらで預かることが可能かどうかを改めて確かめる。

「nameは佐吉と違い、身寄りのない孤児でございます。お城にお仕えしたとして、大した後ろ盾もないこの子にもしものことがありましたら…。生意気ながらこの老僧、そればかりが心配にございます」

次男ながらも土豪である石田氏の名を冠した佐吉とは違い、取り立てて功を上げた訳でもない農民武士を親とした、しかもその両親は既に死没し身寄りのなくなったnameが城に入ったところで、先んじて使えていた侍女たちに虐められるのが関の山だろう。住職はそれを一番に気にかけていた。nameと佐吉が村の子供たちに虐められ大人たちから疎まれていることに彼は心痛し、また何もしてやることのできないことを申し訳なく思っていたのだ。それでも、それでもこうして此処まで二人が寄り添い支えあいながら育ってきてくれたことを心から嬉しく思っていた。だからこそ、新たな悩みの種をnameに植え付けたくはなかった。佐吉は男であるから腕一本、ましてやこの天性の利口さを以てすれば立身出世もそう難しいことではないだろう。しかしnameは女である。

「そのことなら心配ない」

「……」

「彼女のことは僕が責任を持って面倒を見る。これでどうでしょう?」

「……勿体無きお言葉。幼きnameに代わって私めが厚く御礼申し上げまする」

深く、これ以上ないほどに頭を下げた住職の目には薄っすらと涙が浮かぶ。自分の与り知らぬところでどんどんと決まってゆく話に、nameはただ半兵衛と住職を交互に見やることしかできずにいた。

「よし、これで決まりだね。佐吉くんは一度家に戻って父上にこの旨を話してから城においで。nameは…このまま僕が連れていこう」

畳にnameを降ろすと半兵衛は住職に彼女の支度をさせるように告げた。かくしてとんとん拍子に佐吉とnameの豊臣への出仕が決まり、その日のうちにnameは長浜の城へ半兵衛、秀吉らとともに行くことと相成った。これまでを過ごしてきた寺と、そして実子同然に愛し育ててくれた住職に別れを告げる。門前まで見送りに来てくれた住職に何度も頭を撫でられながら、よくよく半兵衛の教えを聞き、そして佐吉と二人で助け合うようにと言い含められ、nameは寂しさのあまり住職に縋り付いて大泣きしてしまうのであった。「いつまでも泣いていてはいけないよ」と住職に諭され、最後のひと撫でがnameの髪から離れたころには夕日が山の端に沈み、辺りには紺色の夜が広がり始めていた。

「さあ、そろそろ行こうか」

いつまでも住職の袈裟から手が離せないでいるnameの肩に手を置いて半兵衛が言う。住職の隣に控えていた佐吉も「name、」と少し悲しいような声で促す。nameは大きく鼻をすすると意を決したように一人頷き、「行って参ります」とはきはきとした(しかし涙交じりの声で)言うのだった。
馬上に上げられ半兵衛に抱え込まれたnameは、並んで見送る住職と佐吉の二人を何度も振り返りながら住み慣れた寺と、そして最後まで馴染むことのできなかった村に別れを告げた。

「name」

「はい、半兵衛さま」

「きみも、佐吉くんに負けないぐらい聡い目をしているね」

「……」

そんなことを今まで言われたことのなかったnameはどう言葉を返せばいいかわからずに、まだ少し涙の残った目で半兵衛を見上げた。

「大丈夫、今にわかるよ」

「……はい」

自分の腹のあたりに回された半兵衛の手に自分の手を重ね、一先ずnameは頷くのだった。

【佐吉くんと豊臣軍】
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