2014

八幡社の大銀杏に登った私は冷たい北風に吹かれながら彼方の山を眺めていた。
昔、あそこには大層綺麗なお姫様がいると誰もが噂をしていた。きらびやかな着物に身を包み絢爛な調度品に囲まれて、さぞかし美味しいご飯を食べているのだろうなぁと幼い私は羨ましく思ったものだった。なんだかそう遠くない話のはずなのに、それは夢物語のように霞がかかり、ふわふわと頭の中を漂っている。
あの時はまだ三成も私も武将なんていえるものではなくて。まあその後賤ヶ岳に攻め入った際に三成が武功を挙げたのだけれど、結局全ての始まりはこの場所だったということなのだろう。それでは終わりはどこなのだろうか。考えても詮無いこと、そのようなことを考える暇があればその時間を豊臣の御為に使えと、三成ならば言いそうだ。
ざあっと風が吹いて黄金色の銀杏の葉が舞い上がる。こんな感傷的な気分なになるなんて、らしくないなぁ。胸の中で蟠った暖かな息を全て吐き出して、澄んだ晩秋の空気で身体を満たす。頭が冴え冴えとしてきた気がして、両手を組んで頭上で目一杯伸ばせば身体のあらゆる筋が正しい位置に戻ってゆく音が聞こえた。
夕暮れ手前のこの刻限、近江の湖はきらきらと白く輝いて美しい。昔は三成とよくここからこの風景を眺めたものだった。着物の裾をたくし上げてはだけるのも厭わずに木によじ登る私を、三成はあまり感心しない風でいたっけな。それでも先に登って手を差し伸べてくれる優しさを、彼はきちんと持ち合わせていた。
勿論今でも彼は優しい。それなりに。例えそれが不器用なものであったとしても、内々の者へのその優しさで他の者に接することができたなら、彼ももう少し生き易かったであろうにと、そう思っているのは私だけではないだろう。それが出来ないのが三成なのだから仕方ないのだけれど。
そろそろ戻らないとまた政務をサボっていたのかと雷を落とされてしまう。新入りの左近は三成の目を盗んで鉄火場に赴いているようだし。三成と刑部の頑張りで近江佐和山は持っているようなものだ。あの佐吉がまさか一国一城の主になるだなんて思ってもみなかった。
寂しさのような感情が胸を去来して、私はまた溜息をついた。懐に忍ばせておいた饅頭を頬張れば、餡子の甘さにうっとりと舌が痺れる。
巣に帰る鳥の群れが湖面から飛び立つのが見えた。さて、帰りますか。誰ともなしにそう言えば、「当たり前だ」と下から声が聞こえてくる。突然の出来事に、口に放り込んだ饅頭が変なところに入ってしまい私は盛大に咳き込んだ。木から落ちなかっただけでも幸いだけれども、中々出てこない饅頭のかけらに躍起になって空咳を繰り返す。

「姿が見えないと思えばまたこのような場所で無為な時間を過ごしていたか」

腰に手を当てた三成が下から私を見上げている。眉間の皺が何時もより深く見えるのは、私が太陽を背負っているからという理由だけではなさそうだ。見つかったか、と飲み込んだ餡子の甘さを名残惜しく思いながらするすると木を降りる。

「よっ、と」

「児戯に興じるような歳でもないだろう」

「たまに来たくなるんだよね」

「郷愁の念に囚われていては前進などできん」

ふん、と三成は鼻で笑う。かつての友を、三成はようやく乗り越えることができたのだった。それを嬉しくも、寂しくも思う。私なんかが立ち入ることが出来ないぐらいに深い場所で、二人は繋がりあっていたから。絆を断ち切った二人は背中合わせに、もはや別々の未来を見据えていた。すっと前を見る三成の背中はそれでも僅かに猫背になっていて、私はそんな不完全な彼の背中を命に代えても守るのだと、あの日かたく心に誓った。
斜め右を見上げれば、三成の鼻先が北風の所為でほんのり赤くなっていて。ずっと昔、此処でこうして並んで立っていたことをふと思い出す。あの時も確か、太陽が夕日に代わるのを二人で眺めていた。まだ三成が佐吉だった頃、今よりも随分と背が小さくて、輪郭も幾らか柔らかだった。そんな彼の横顔はあの頃の面影を残して、立派に豊臣の将としてこの地に再び立っている。

「大人になったね、三成」

「からかっているのか」

「ううん、そうじゃなくて。なんか、たまにね、遠く感じるよ。三成のこと」

「……」

どういう意味だ、と三成の目が告げる。その瞳は太陽の光を吸い込んで、琥珀や翡翠を粉々にして散りばめたようにちりちりと透き通り煌めいていた。
お城を任されて、左近が来て、一丁前の将になっちゃったね。
へへ、と嬉しいんだか悲しいんだかわからなくなって笑った私を、三成はまた鼻で笑った。

「私は私だ。昔から、貴様が一番知っているはずだと思っていたが」

「…嬉しいこと言ってくれるね」

隣の三成を肘でつつけば「やめろ」と一蹴された。じろりと私を睨む三成を見つめれば、恥ずかしいのか何なのか、ふいっと視線を逸らされた。そうしてどちらともなく歩き出す。足元一面に広がった銀杏だの桜だのの赤や黄の落ち葉に足を潜らせながら私は歩いた。

「貴様も、」

「ん?」

「変わらんな」

「昔と?」

「ああ」

「えへへ」

「誰も褒めてなどいない。いつまでも幼いままだと言っているのだ」

「失礼な!」

ふふんと笑った三成の背中を睨み付け、私は足元に転がっていた銀杏の実を掴んで投げつける。見事三成の後頭部に当たったそれは、落ち葉の中へと消えていった。鬼の形相で振り返った三成に向かって「くらえ三成!銀杏爆弾だ!」と言いながらすかさずまた実を投げれば、今度は見事な手刀で薙ぎ払われた。

「流石だね」

「いい加減にしろ!そのようなところが…」

「あ、」

「?」

目を釣り上げて此方に詰め寄ってくる三成を遮ってつい声が漏れた。

「やばい、手が臭くなった」

「……」

まだ青いままの銀杏の実を掴んだ手は、なんとも言えないあの鼻を抓みたくなる異臭が張り付いている。ということは。

「ごめん三成」

「貴様…」

見事な捌きで銀杏を払い落とした三成の手もまた。

「うわ、くっさー」

まさかと思って鼻のあたりに挙げられた三成の手を取って臭いを嗅げば、実を潰した所為か三成の手の方がより強烈な臭いを放っていた。

「いい加減にしろっ!」

「ごめんごめん」

私の胸ぐらを掴もうとしてくる三成の腕を掻い潜り、彼の手を取った。一瞬で硬直した三成の顔を覗き込めばまた無言で視線が逸らされる。

「臭い者同士、手でも繋いで帰ろうよ」

「誰が…!」

繋いだ手を振り解こうとする三成の腕にしがみ付いて思い切り体重をかければ、僅かに身体が傾いた。昔だったら二人して転んで田んぼの中に落っこちていたのに。三成の両足はきちんと地面についていて、そうして私を支えてくれる。

「はぁ、手洗いたいな」

「何故私までこのような目に…」

ち、と舌打ちした三成に「まあまあ」と言って肩をぶつける。漂う銀杏の香りを極力鼻に入れないようにしながら、私と三成は高く聳える佐和山の麓を並んで歩くのだった。

【またここに戻ってこれる】
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