2014

もう何もかもいらないと思った。視界の全てが淡い紫に染まっていて、何度目をこすってもそれは変わることなんてなかった。
畳が冷たい。心が冷たい。足の先は冷えすぎた所為で痛いを通り越してもはや感覚なんか消えていた。
とっくの昔に太陽は昇っているはずなのに、私の部屋には隅々まで夜が広がっていた。永遠に真昼なんていらない。私の太陽は真っ赤な風にあっけなく奪われた。部屋の隅に赤い月を見た気がして私は手を伸ばす。冷たい月は血の道を通ってきたかのようにぬるりと赤く濡れていた。
おいで。あの声が聞こえる。耳の中から、頭の中から。おいでおいで、name、こっちへ、おいで。その優しい声はやがて私の叫びへと変わっていった。置いていかないで、私を置いていかないで、お願い、逝かないで。
縋った手からゆっくりと引いていく熱を思い出し、腹の底から饐えたものが上がってくる。舌の付け根が見えない何かに押し広げられて、私は畳に嘔吐した。したはずだったが、それはどうやら幻覚だった。
嘔吐きながらあるはずのない吐瀉物を叩きつけ、まだこれほどまでに残っていたのかと驚くほどの涙を流してわんわん泣いた。何をしたってもう戻ってこないあの人を思って。
あの優しい瞳も、知的な横顔も、嫋やかな腰も、柔らかな髪も。全て全て全て、私を愛してくれた全てはもう手の届かない遠い場所へと消えてしまった。何故、どうして。私に光を与えてくれあの人を、返してくれと誰に頼めばよいのだろう。
畳に突き立てた指を握り締める。ぎちぎちと耳障りな音がして爪が指から浮いてゆく。会いたい、あのしなやかな腕に抱かれて名前を呼ばれたい。おいで、name、あたたかいね、君は本当にあたたかい。
嗚呼、嗚呼!!夢か現か、陽だまりに身を寄せたそう遠くない過去はもはや彼方。戻らないのであるならば私からゆけば良いのか。帰り路のない暗がりを、一人歩けと、そう、あなたは。
温もりを求めて障子の隙間に手を伸ばす。絶え絶えに開けたそこから地虫のように身を這い出して、そして太陽に焼かれた。
白く爆ぜた視界に私は絶叫する。目をつぶってもなおそこに君臨する太陽は容赦無く心を焦がすのだ。ならばいっそ苦しみを、悲しみを、私の全てを奪い去ってはくれまいか。
name!name!私の名を誰かが呼んでいる。水の中にいるように音の輪郭があやふやで、それが男の声なのか女の声なのかすらもわからない。
砂を握った指先で、爪と指の間を埋めるしとやかで冷たい感覚だけが頭の中にはっきりとある。地に伏している筈なのにどこまでもどこまでも旋回をしながら落ちてゆく奇妙な浮遊間に私はげえげえと喉を鳴らした。水すらもろくに飲んでいないのだからもう何も出ないのに、それでも無限に腹の底から湧き上がる嘔吐感が私の意識を引き止める。

「おい!name、しっかりしろ!」

誰、半兵衛さま、誰、半兵衛さま、いない、誰、誰だれだれだれ!!私の名を呼んで優しい腕で捕まえるのは一体誰!

「水を持ってきた」

いま部屋に運んでやる。私を部屋に運ぶ。私は部屋へと運ばれる。何のために。わからない。この手は、この手は。

「三成」

「私を見ろ」

膜がかかったような視界の向こうにいたのは三成だった。銀の髪が眩しくて目を閉じようとすれば、両手で頬を挟まれた。全ての感覚が薄皮の向こうにあるようで、現実の在り処がわからない。
軽々と私を持ち上げた三成は私を部屋へと連れてゆく。あの寒い部屋には戻りたくない。もう何も見たくないから、お願いだから。

「殺して」

そう言うしかない私を三成はぐちゃぐちゃになったままの布団に下ろすと静かに押し倒す。そんなことしたこともなかったくせに、どうして今するの。三成の腕の中で半兵衛さまの熱を思い出す。必死に、砂をかき集めるようにして。それなのに、手の平からは掬うたびにこぼれ落ちていく。そう遠くはない記憶。身体の芯にまで刻まれたと思っていたのに。馬鹿だね、nameは。微睡みに浮かぶ雛菊のような笑顔で半兵衛さまは私を抱き締めた。馬鹿だね、馬鹿だね。私は馬鹿だ、大馬鹿者だ。頭を掻き毟る私の腕を三成が掴む。

「やめろ、」

「返して、返してっ、返して、半兵衛さま、半兵衛さまをっ、」

喉がぜえぜえと音を立てる。真冬の暗い洞窟のようだった。寒い、寒い。骨の髄まで染み込んだ寒さに、伸ばした指先が震えていた。涙が、涙だけが熱い。それすらも頬から落ちて冷たくなってゆく。

「半兵衛さまは…もう、」

「聞きたくないっ、そんなの、そんなのっ」

「nameっ!」

私を呼ぶ三成の声は悲鳴のようだった。半兵衛さまではない腕が私をかき抱いた。半兵衛さまがするような柔らかで儚げな抱擁でもない、甘やかな香りがするわけでもない、ただ、ただひとつの現実を私に突きつける二本の腕。
胸元に押し当てた頬がしとどに濡れる。泣いていた。私も、三成も。昔にだってこんなに泣いたことなど一度もなかったのに。私たちの頭を撫でてくれた手はもう、もうどこにも。

「私はお前を託された。半兵衛さまに、お前を、nameを、…」

私はお前を殺しはしない、死なせはしない、何処にもやらない、やりはしない。譫言のように三成は繰り返す。見上げれば、涙でふやけた心が三成の強い瞳で射抜かれた。
name、name、name。呼ぶ、三成が私を呼ぶ。脱がす、既に着崩れた着物を三成が脱がす。剥き出しになった肩に三成が歯を立てた。痛い。痛いと感じる。与えられる痛みは膿んだ頭に風穴を開ける。
三成の涙が降ってくる。春を告げる慈雨のようにあたたかい。命が芽吹くような涙だった。亡者を欲する私を引き上げる腕は骨ばっている。うっすらと骨の匂いがする白い腕。

「name」

三成の掠れた声が耳に心地いい。額に押し当てられた唇に生者の烙印を与えられ、私は顔を歪めて喘ぐ。細くて長い指が髪を梳く。なにもかも、もう何もかもがわからない。ただ三成が、私の中を優しく満たす。涙で、身体で、白濁で。埋まる筈などないのに、それでも。

【蒼色に果つ】
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