(竹千代)
夏の終わり、少し早い秋が尾張の国の青葉を揺らすある日のことだった。
いつものごとくとっておきの場所にnameは向かう。そこは中庭から小路を抜けて壁伝いにしばらく歩いた家屋の陰だった。人気もなく建物の壁で目隠しをされているにもかかわらず午前の間は日当たりの良い場所がnameは好きだった。
ここならば光秀に見つかることもない。書を読むのに飽きたnameは光秀が退出すると戻ってこないことを確認して、しばしばここへとやってくる。懐紙にこっそり金平糖や飴玉を忍ばせて。
鼻歌交じりに足取り軽く道を行くnameは普段と何か様子が違うような気配を感じ、桜の老木の陰から顔だけを出して行き先を確認する。
するとどうだろう、これまで誰の侵入も許さなかった自分だけの場所に見知らぬ少年が蹲っているではないか。誰だろうかと不思議に思いながらそろりそろりと足音を忍ばせて近づけば、少年の肩は小刻みに震えていた。
「泣いているの?」
恐る恐る背後から声をかけると少年は顔を上げて振り向いた。
「あなた、だあれ?」
「わしは三河の竹千代だ」
「たけちよ」
「そうだ」
さっきまで泣いていた竹千代は涙と鼻水を手の甲で拭うと気丈にも胸を張って名乗りを上げる。幼いとはいえ彼もまた武士の子なのである。
nameは竹千代の隣に腰を下ろすと足元の草をむしりながらもう一度「たけちよ」と舌足らずに言う。飴玉を転がすように口にされた自分の名に竹千代はほんの少しだけくすぐったい気持ちになる。
「お前は何というんだ」
「私?私はname。このお城で光秀さまにお仕えしているの」
「明智殿にか?」
「光秀さまを知っているの?」
自分の仕える主を竹千代が知っていたということに驚きを隠せないnameは身を乗り出した。竹千代はあまり浮かない顔で「ああ」と答える。
光秀があまりよく思われていないことを、nameも幼いながらに感じていたので竹千代が浮かぬ表情をしてもとりわけ咎めることもしなかった。
「わたしね、光秀さまに拾われたの」
「拾われた?」
「うん。もとは駿河にいたの」
nameは俯いて地面を這っている芋虫をつまんで投げる。
まだほんの少し鼻の赤い竹千代はしばらくの間黙り込んでいた。
「おぬしは駿河に帰りとうはないのか?」
「今さら帰るところなんてないもの。それに私の居場所はここだから」
えへへ、と笑うnameとは対照的に、竹千代は真剣な顔をして拳を握る。
どうしたのだろうと彼を見る。
「わしは帰る、絶対に…三河に…」
折角泣き止んでいたのに、最後のほうは再びの涙で声が震えていた。
むくむくとした竹千代の拳が戦慄いていて、nameはとっさに手をとった。
「帰れるよ!きっと、きっと」
「ありがとう、name」
nameは懐から取り出した手拭いで竹千代の涙を拭いてやる。竹千代は焚き染められたほのかに甘い香の香りに気恥ずかしくなり「やめろぉ」と首を振りnameの手から逃げる。
わしは三河武士の子なのだ。このように泣きべそなどかいていては強くなるものも強くなれまいと、今更ながらに思うのだった。
「わしは強くなってみせる」
「……」
nameは手に手拭いを握りしめたまま、何かを見透かすような目つきで竹千代のくりくりとした瞳をまっすぐに見る。まるでその中に彼の未来が映し出されているかのように。
ふわりとnameが微笑むのと同時にやわらかな風が吹いた。
「これあげる」
「櫛…?」
「うん。竹千代が国に帰れるうに、お守りだよ」
ありがとう、と言って素直に受け取る竹千代の膝に触れて「あとね、」とnameは続けた。
「三河に帰っても、私のことを忘れないでね」
「……お、おうっ!」
「竹千代はここでできた私の初めてのお友達だから。離れ離れになっても忘れないで」
「わしのことも、忘れないでいてくれるのか?」
「もちろん!」
二人は顔を見合わせて笑うのだった。
ほどなくして竹千代は三河へと戻っていった。nameは竹千代のいない日々の寂しさを紛らわすために日々勉強と鍛錬に励み光秀を大いに気味悪がらせた。
「どうしたのですname、あなたがこんなに真面目だったなんて知りませんでした」
「竹千代に負けたくないから」
「……クク、そうですか」
口元に手をあてて光秀は嗤う。ついこの前までは無邪気な子供だったというのに、もう色恋の世界に足を踏み入れてしまったのかと少し残念に思いながら。
「今度会ったときには竹千代をびっくりさせてやるんです」
「まあ、精々頑張ることです」
腕まくりをして鼻の穴を膨らませ、俄然やる気を出しているnameの姿に光秀は、もう少し礼儀作法と嗜みを覚えさせたほうがいいのかもしれないとため息をつくのだった。
【たとえば、それ以上の約束は必要なかった僕らのために】
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