2014

天海の膝の上に座った少女は熟れた桃を食べていた。季節外れの桃をその両手で捧げるようにして持ちながら、じゅるじゅると啜るように食べていた。まるで彼女が食べている桃のようにふっくらとした頬はねっとりとした果汁で塗れ、唇の端からこぼれた汁は顎を伝って天海の着物の二薄暗い染みを転々とつけている。締め切られた部屋の中は嘔吐きそうなほど甘ったるい香りで満ちていた。外界の空気の侵入を一切許さない、そんな秘密めいた雰囲気がそこにはあった。
秘密の部屋で執り行われる儀式めいた饗食を天海は愛していた。nameの白く小さな歯が皮をむいた桃の果肉につぷりと突き刺さり、芳醇な果汁を吸い上げながら唇が名残惜しそうに離れてゆく様を、彼は飽きもせず、己の着物が汚れることも厭わずただただ眺めている。そうして時折、てらてらと光るnameの口の端に鼻先を寄せて噎せ返るような甘い香りを胸いっぱいに吸い込むのだ。
その間、nameは何一つとして言葉を発しない。ひたすらに、夏の昆虫のように桃の果肉に唇を押し付ける。そうして全てを食べ終わると天海は口を覆う鎧めいたものを静かに外してnameの指に舌を這わせる。腕の内側の、肉が柔らかい部分から始まって、手首、手のひら、果ては爪と指の隙間までもを丁寧に舐めてゆく。蛇や蜥蜴のように凹凸もざらつきもない天海の舌の感触。nameは睫毛を震わせると、彼の頭をそっと撫でる。「ああ」と天海の唇から吐息がこぼれた。
天海に後ろから抱きかかえられながらnameは脇に置いてあった盥で手を洗う。若い皮膚はよく水を弾いた。二人の指が重なり合ったり絡み合ったりしながら、盥の水をちゃぷちゃぷと揺らした。たいそうな時間をかけて天海はnameの手を丹念に洗う。肘の先まで、両手で掬った水をかけてやる。全てを終えて、てぬぐいで優しくnameの手を拭く天海の口には既に例の覆いが被されている。
そうして天海は仰臥すると、腹の上にnameを俯せに寝かせてその薄い背中で手を結ぶ。nameは両手を重ねて天海の胸に寄せた頬の下に敷いていた。下になっている彼の呼吸に合わせて小さな少女の身体が上下する。規則正しい絡繰りのように、幸福な亡霊のように。
nameは微動だにせず天海の鼓動に耳を澄ませる。自分の中で拍動するそれよりも、些かゆっくりと脈を打つ天海の心の臓の音をひとつたりとも聞き逃さないよう細心の注意を払った。城の奥まった場所にあるこの部屋に雑音が届くことは滅多にない。聞こえるのは虫や鳥の声と、静寂の立てる硬質な音だけだった。畳の目の中を蠢く虫のように、二人は息を潜めて重なり合う。
ゆるりと伸びた天海の腕。彷徨うようにしてnameの頭を撫でる指。天海の、見た目にそぐわぬ存外無骨な指は静かに静かにnameの髪を梳く。nameは少しだけ胸を浮かせて、伏し目がちになってこちらを見ている天海の瞳を覗き込む。二対の瞳に感情はない。なにか、言葉などでは語れぬ類の結びつきだけが存在していた。互いの深淵を覗くような思慮深さで、言葉を介さずに。
先ほど洗ったにもかかわらず、己の指先がまだべたついているような気がしてnameは中指をそっと天海の唇に乗せる。薄い皮膚の向こう側に、控えめな熱がある。僅かに彼の顔が傾ぐと、さらさらと髪が揺れた。桃の気怠い残り香を纏ったnameの指が天海の口に含まれる。するとどうだろう、やはり天海も、ありもしない残滓を感じて指に舌を絡めるのだった。血色が悪い唇とは裏腹に、彼の口内は血を啜った直後の野衾のようにてらてらと赤かった。接吻のような音を立てて離れた唇と指先を繋ぐ唾液の糸が、儚く途切れた。湿った吐息が薄い唇から零れて消えた。消えた、というよりも、部屋の静寂に溶け込んだ、といった方が正しいのかもしれない。
沈殿した果実の気配に身を沈め、少しだけ濃くなった部屋の闇に微睡む二人。それは果たして二人なのか一人なのか。あるいは、誰も居らぬのか。生けられた椿の花が、ぽとりと落ちる。皿に盛られた桃の皮に、蠢く蟻が群がっていた。

【狭間で揺れた】
- ナノ -