2014

天海さまの背中はさみしい。
でもそれは惨めなさみしさではなくて、孤高のさみしさのような気もする。私は天海さまのことが好きだから、天海さまのことを理解してあげたい。だってさみしいはずの天海さまの指は、時々何かを求めるように空をかくから。
天海さまは金吾くんを精神的にいたぶるのが楽しいのか、それとも実は彼の笑顔に癒されているのか、嗜虐的なのか加虐的なのか私にはよくわからない。何かを食べているところも見たことがないし。霞を食べるような種類の人間ではなさそうだから、もしかしたら人間の魂を食んで生きているのかもしれない。いつだったか天海さまに好きな食べ物を聞いた時も、暫く思案した後ふっと綺麗な笑顔を浮かべて「人の不幸、でしょうか」なんて言っていた。金吾くんも私も、天海さまを執拗に鍋ぱぁりぃに誘うのだけれど、ついぞ今日までその願いが叶うことはなかったのだった。
天海さまのお部屋はあまり日当たりが良くない。中庭にとりあえず面してはいるものの、お日様が差し込むのはせいぜい部屋の真ん中ぐらいまでだった。それなのに文机はさらに奥まった部屋の隅に置いてあるものだから、私は天海さまの目が悪くなってしまわないかいつも心配だった。だけど天海さまは暗い方がよく見えるのですと言っていたから、もしかしたら彼はそういう特別な目を持っているのかもしれないなと私は納得してもいた。
だから私は、月の出ない夜に天海様さまのお部屋を訪ねてみた。天海さまの寝ている姿なんか想像できないな、なんて思いながら踏みしめる床板は、何故だろうか天海さまのお部屋が近づくにつれて冷たさを増していた。中庭に枯れかけた彼岸花が二本生えていて、冷たい風に揺れていた。丑三つ時だというのに天海さまのお部屋には薄ぼんやりと明かりが灯っていた。

「どうしたのです、こんな時間に」

くく、くく、と喉の奥で笑いながら、まだ障子も開けていないのに天海さまは夜半の訪問者が私だということに気がついている。

「天海さまは夜の方が目が効くのですか」

「それを尋ねにやって来たのですか、わざわざ」

にじり出て来た天海さまは、問い掛けに頷いた私の腕を取ると部屋の奥へと引き摺り込んだ。蝋燭の明かりですら照らすことのできない絶対的な暗闇がそこにはあった。息が苦しいくらいの夜が畳の上で冷気のように渦を巻いている気がして、宵闇の黒に私は喘ぐ。

「では、ご覧に入れて差し上げましょう」

くく、くくく。天海さまの笑い声が部屋に響く。それは楽しそうな烏達の声みたいで、つやつやとした墨色の羽根を私に思い起こさせた。私を腕に抱いたまま、天海さまは燭台の蝋燭を吹き消した。

「ここが頭、眉、鼻、頬」

ゆっくりと天海さまの指先が私の顔をなぞってゆく。「くちびる」「喉」「乳房」「腹」「尻」「太腿」「膝」「脛」「踝」「足の甲」「爪先」準々に辿れば私の身体の輪郭が夜に浮かび上がった。ひんやりとした指先は私の肌を粟立てる。

「すごい、天海さま、すごい」

「ふふ、造作もないことです」

さぁっと野立のような手付きで足先から喉元に上がってきた白い手が、私の首を絞める。

「貴方の中に渦巻いているものだって、私には見えますよ」

「わたしの、…なか?」

ぶつぶつと音を立てながら、頭蓋の中で私を作る糸が断ち切られてゆく。頭の内側から押し出された目玉が落ちてしまいそうな気がして、慌てて両手で顔を覆った。

「そう、貴女の中でぬらぬらと光る臓腑すら見ることなど容易いのです」

「ぞう、ふ」

暗闇の中で黄色だとか緑だとか、色取り取りの鮮やかな点が蛍のように舞っていた。臓腑という言葉の響きの甘やかさに、私はよだれを垂らしそうになった。空気を求めて開けた口の端から一筋流れた唾液を、天海さまの長くて赤い舌べらが舐めとった。いよいよ視界が真昼の明るさになってきて私はじっと天海さまを見上げる。

「気持ちいいでしょう」

口角を上げた天海さまに、私は瞬きで返事をした。するりと手が離れたのと同時に、どっと身体の中に新鮮な空気が入ってくる。ひやりとした夜の空気は、爛れかけた皮膚の内を霜が降りるみたいにして冷やしていった。けほけほと咳き込んでいると、つい、と頤に手を添えられた。首級を検分するような目付きでつぶさに顔に視線を注がれ、私はどうしていいかわからず天海さまの瞳に映った自分と目を合わせる。障子を通して部屋に射し込む月明かりに、天海さまの銀の髪がまるで夜の海のように白く淡く浮かび上がっていた。

「私の中に入っているものは、天海さまの中に入っているものと一緒ですか」

「似て非なるもの、でしょうね」

「引きずり出せば、一緒でしょうか」

「では引きずり出してみましょうか」

私の腹の辺りで天海さまの人差し指が十字を切った。ぱかりと割れた腹から桃色の臓腑が垂れ落ちる幻覚が見えた気がして、私は天海さまの着物をぎゅっと掴んだ。

「おやおや、怖がらせてしまいましたね」

「いいえ」

「手が震えていますよ」

そっと重ねられた天海さまの手のひらは、陶器のように冷たかった。

「天海さま」

下から見上げれば、「なんですか」と首を少し傾げた天海さまの髪がはらはらと肩から落ちる。

「私は天海さまを理解したいのです」

私はそのひと束に触れながらそう言った。すると天海さまは一瞬驚いたように目を見開くと、心底愉快そうな顔で高笑いをした。

「私を、理解。面白いことを言いますね」

首筋を、噛まれた。薄い皮膚越しに肉が歯の形に窪む。首を絞められたのとはまた違う痛みに、じわりと涙の膜が張る。

「貴女が私を、あるいは私が貴女を喰らえば」

「能いますか」

「ええ、きっと」

ふふ、くくく、あはははは。天海さまが笑うたびに部屋の夜は深くなる。霧のような、蜜のような。私を包むのは不思議な闇か、それとも腕か。薄墨を流したような視界の中で、ちら、と滴る鮮血のような舌先が蠢いた。

【なにか失くしたりしたのね】
- ナノ -