2014

「駄目だ、name」

「私もゆきます」

「それは許可できない」

「三成や家康はいいのに、なぜ私はだめなのですか」

「駄目なものは駄目だ」

「私だってこの日のために鍛錬を積んできました」

「……」

「半兵衛さま」

「name、僕は君を失いたくない。だから今回の戦への同行は認めない。例え三成くんと家康くんの初陣だとしても、だ」

おもむろに伸びてきた腕に抱きしめられて、今度はnameが黙り込む番だった。
豊臣に長年仕えてきた親を戦でなくし、孤児になった自分をここまで育ててきてくれたのは紛れもない半兵衛であった。
娘のように、時には恋人のように大切に大切に育て上げたnameを彼が戦などに帯同させたくないのは当たり前である。しかしnameは昔馴染みの三成と家康とともに武芸を磨き、初めのうちはそれを微笑ましく見ていた半兵衛であった。が、しかし親を戦で失ったがための熱情と、絶大なる信頼を置く半兵衛のため、ひいては豊臣の御為にと一心不乱に昼夜稽古に励むnameを彼は次第に刀から遠ざけようとした。結局のところそれは失敗に終わり、半兵衛の悩みの種がひとつ増えるだけとなったのだった。
女だからと手加減しない二人の友人に挑んでは傷だらけになって半兵衛のもとに戻ってくるnameの手当てを、彼は心を痛めながらしたものであった。きみは女なのだから歌や楽器をおぼえて自分の側にいてくれればいいと、言葉を尽くして言い聞かせたことは数知れない。しかしnameは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
そうして迎えた三成と家康の初陣前夜、白い夜着のまま半兵衛の部屋に訪れたnameは自分も戦場に連れて行って欲しいと必死になって頼み込んでいた。
刀からを握るからと、幼い頃よりついぞ長く伸ばすことのなかったnameの黒髪を撫でながら、とうとうやってきたこの時を嘆く半兵衛である。
確かにあの二人と幼少より武を競い合っていただけあり剣術だけでなく、nameは武芸においてはその辺の男武者にも勝るとも劣らない腕を持っていた。しかしそれでも何が起こるかわからないのが戦場なのだ。いくら腕が立つとはいえそのような場所に大切なnameを連れてゆくことに手放しで賛成できるわけもない。彼の心配のしようは、友人の秀吉ですら半兵衛の肩に手をおき同情の眼差しを送るほどであった。

「半兵衛さま、お願いです」

「もう寝よう、明日は早いんだ」

「……」

褥にnameを誘うと、彼女の頭の下に腕を差し込み半兵衛は細く息を吐く。こんなにも細くて小さな、つい先ごろまで女童だったようなnameを戦場に?いざという時に自分の身を呈してでも彼女を救いに行ってしまうかもしれないだなんて、そんなのは豊臣の軍師の名折れではないか。とつとつと時間だけが過ぎてゆく。一向に眠りが訪れない半兵衛を他所に、彼の腕の中でnameは静かな寝息をたてていた。

朝、大阪城は早朝より慌ただしく人々が行き交っていた。太陽が山際の雲を朱鷺色に染まる頃、浅い眠りから覚めた半兵衛は既に空になった腕の中の寒々しさに身震いをする。nameの行き先は恐らくあの二人の元、若しくは秀吉の元だろう。溜息をひとつ吐き決心を固める。床から起き上がった半兵衛の顔は、大群豊臣を指揮する軍師のそれであった。
身支度を整え各々隊の準備にかかる諸将を激励するさなか、半兵衛は三成と家康の両友に挟まれて立つnameの姿をみつける。真っ先に半兵衛に気が付いたのは三成であった。視界の端に半兵衛を見るや否や片膝をつき頭を垂れる。遅れて家康が頭を下げ、しかしnameは挑むように仁王立ち彼を見上げている。

「name」

「……」

名を呼ばれ、それでも返事すらせず突っ立っているnameを見かねた三成が素早く立ち上がり、彼女の頭を掴むと地面に叩きつけようとする。半兵衛はそれを制し三成を立たせた。

「name、きみの同行を許可しよう」

静かに言い渡した半兵衛に、nameは数度瞬きをする。よかったな、と家康が頭を撫で、三成は複雑そうな表情を浮かべていた。

「ただし、三成くんと家康くんから決して離れないように。わかったね」

「はい」

「二人とも、すまないがよろしく頼むよ」

仮面の奥の目を細めた半兵衛に三成、家康、そしてnameの三名は揃って頭を下げた。

「いいのか、name」

「なにが」

「半兵衛さまは貴様を連れて行くことに賛成しておられない」

「それでも、私は戦いたい」

握られたnameの小さな拳を家康の大きな手がすっぽりと収める。

「いいさ、ワシが守ってやる」

「自分の身は自分で守る」

「ふん、生意気を言うな」

初陣前の緊張を払拭するかのように言葉を交わす三人は、鳴り響く出立の合図に背筋を伸ばした。

山の上に築いた布陣から向かいの山とも丘ともつかないような敵方の陣幕を望む。薄く霧がたなびいていた。
そろそろ出陣という頃合い、半兵衛に呼び出されたnameは秀吉と半兵衛のいる本陣に立っていた。少し離れて三成と家康も控えている。

「name、決して無理をしないように」

「はい」

「必ず、生きて戻るんだ」

「はい」

「死ぬことだけは、許さない」

「…はい」

幾度となく死線を潜り抜けてきた彼だからこそ、その言葉は重みがあった。nameは神妙に頷き、そして半兵衛は彼女を抱き締めた。人目を憚らない半兵衛の振る舞いに、nameはいつものことと思いながらも流石にこの時ばかりは心が揺れた。そんな二人を見て三成は赤面するも、視線をそらせずにいる。家康は鼻の頭を掻き、ふわりと笑った。暫くnameの温もりを確かめていた半兵衛は彼女を後ろの二人に託す。

「さあ、出陣だ。切り込みを頼むよ」

並んだ三人にそう言って、半兵衛は剣を持った手を振り上げた。
功を争い一目散に山肌を駆け下りる。鬱蒼と茂った木立を抜ければ開けた平野には既に敵方の兵が隊を展開させていた。波のように押し寄せる人垣を先頭をゆく三成が薙ぎ払い、後方援護を家康が務める。二人の背中を眺めながら、nameはとても心強い気持ちになる。きっと大丈夫。
みるみる内に人海は真っ二つに割れ、辺りは敵味方入り乱れる混戦となった。方々で刀同士がぶつかる音や鉄砲が火を吹く音が響き渡る。三人はそれぞれ、少し離れたところで敵と対峙していた。
nameは目の前に振り下ろされた槍先を躱し、相手の懐に潜り込むと喉元に刃を突き立てる。ひと息つく間もなく横から切りかかってきた敵を切り捨てると先を行く二人を追いかけた。これで何人斬っただろうか。雑兵ばかり斬ったところで何になろう。半兵衛に認めてもらうためにも、名のある首級を取らねば意味などないのだ。
夢中で走るさなか、ふと足元の骸と目があった気がして一瞬nameは立ち竦んだ。その刹那、死んだと思われた敵兵に足首を掴まれnameはその場に倒れ伏す。振り払って逃げねば。頭ではわかっているはずなのに身体が動かない。むくりと起き上がった男は砂埃と血に塗れていた。なんとか体勢を立て直したnameであったが、背丈が全く違う男に上からのし掛かられてはひとたまりもなかった。

「貴様、女か」

「だったら、なんだ」

「戦をナメるな」

「なめてなど、っあ!」

首を片手で絞められる。立ち上がった男にぎりぎりと首を掴まれたまま持ち上げられ、nameは苦しそうにもがくも男の手は彼女を離そうとはしなかった。宙に浮いた脚は空を掻き、nameは首を握る男の腕に爪を立てた。苦しい。頭の中で幾つもの泡が白く弾けていく。男の肩越しに三成と家康の姿が見える。彼らも眼前の敵を薙ぎ払うのに夢中で、nameの様子には気が付いてはいないようだった。
狂気に燃えた男の暗い瞳をにらみつければ、指先に込められた力は益々強くなりnameを絞めあげる。女だからなんだ、馬鹿にするな。しかし気持ちとは裏腹に四肢には力が入らず、空気を奪われた身体は限界を訴えていた。
これまでなのだろうか。今日までの日々が早送りで脳裏を過る。必ず生きて戻れと言った半兵衛の言葉が、ふいに胸の内に響いた。死ねない、死ぬ訳にはいかない。
nameは閉じかけていた目を見開き、最後の力を振り絞って旧友の名を叫んだ。

「…三成っ!家康…っ!」

たすけ、て。最後の方はもはや掠れ声であった。しかし瀕死の吐息混じりの言葉をnameが言い終わるよりも早く、疾風の如く駆け寄ってきた三成が男を背後から袈裟懸けに斬りつけた。下におろされた鋒をそのまま素早く振り上げた三成は躊躇いもなく男の首を跳ね飛ばす。為す術なく三成を見上げていたnameに緋色の血飛沫が降り注いだ。
こと切れた男を蹴り飛ばし、呆然と地面に崩れ落ちるnameを三成が抱きかかえる。かたかたと小刻みに震える背中に、遅れてやってきた家康の手が添えられた。

「何故もっと早く呼ばなかった!」

「……」

「name、無事でよかった」

三成がnameの顔を汚す鮮血を拭えば、彼女の瞳にはみるみる内に涙の膜が盛り上がる。しかしすんでのところでnameは唇を噛んで涙腺の決壊を防いだ。戦場なのだ、ここで泣く訳にはいかない。大きく息を吸って瞳に闘志を再び灯すと、家康の手を借り立ち上がる。

「気を抜くな」

「うん」

「では、行こうか」

其々に武器と拳を握りしめ、三人は再び地面を蹴った。

所変わって豊臣本陣。半兵衛の心配が頂点に達する頃、総崩れになった敵方本陣から撤退の法螺貝が鳴り響く。それと同時に平野に散らばる豊臣兵達からは喜びの勝鬨が上がった。
秀吉は自分の隣で勝鬨に耳もくれず、我を忘れかけた友人を心配そうに見下ろしていた。

「秀吉、name達の姿は見えるかい?無事だろうか…勝ち戦なのだから無事に戻ってくるよね…うん、そうに違いない」

「う、うむ…」

「ああ秀吉、君の肩に乗せてもらったらもっと遠くまで見えるじゃないか!さあ秀吉、すまないが僕を肩に乗せてくれないか?」

「半兵衛、落ち着け」

「落ち着いてなんかいられないよ、僕の可愛いnameに万が一の事があったら…僕は、僕は…」

豊臣が誇る天才軍師の危うい一面を垣間見てしまった気がして、二人を取り巻く兵達は互いにひっそり目配せをする。半兵衛が今にも秀吉によじ登ろうとしたその時だった。

「name!」

「三成、家康」

緩やかな斜面から現れた三人に、半兵衛と秀吉は胸を撫で下ろす。どす黒い血を頭から浴びたnameの姿に、半兵衛は軽い目眩を覚えながら立ち竦む。
その場から動かない半兵衛をnameは唇を噛んで暫く見つめ、そして彼女の方から走り寄った。
抱きつく一歩手前で足を止めたnameを衣服が汚れるのも構わずに半兵衛は引き寄せ抱きすくめた。

「半兵衛さま、汚れてしまいます」

「怪我はないかい、痛いところは?」

「ありません」

「こんなに汚れてしまって、君の顔が台無しだ」

そう言って、nameの顔にこびり付いた血糊を半兵衛が手拭いで拭いてやる。その様はまるで子の世話を焼く母のように周りの者の目に映った。

「半兵衛さまって案外過保護だよなぁ」

「ふん、何故nameがあれ程までの扱いを…」

呑気に笑う家康と、嫉妬と羨望の色を滲ませた三成。彼らにもまた秀吉から直々に労いの言葉が贈られた。

そしてその夜、大阪城に戻った豊臣軍は飲めや歌えやの大騒ぎをして夜を明かしていた。
しかしnameは湯殿で汚れを落とし、早々に宴会を引き上げ部屋へと戻るとひとり刀を磨いていた。
思い出すのはあの場面の事ばかりだった。もしも三成が助けてくれなければ今頃は。そう考えるだけで重たい石を飲み込んだような気持ちになった。

「name」

静かに、足音もなく現れたのは三成であった。月光を背負った彼はそろりと部屋に入ると腰を下ろす。

「宴には戻らないのか」

「うん」

「…そうか」

「三成、」

半兵衛さまが探しておられた、そう言おうとしたのだが、ふいに呼ばれた自分の名前に三成はそれを口にする折を見失ってしまった。「なんだ」と言うようにして少し顎を上げた三成。あぐらを組んだ脚の上に無造作に置かれた三成の手を取ると、nameはぽつりと「ありがとう」と呟いた。
その今にも泣きそうな声と小さな手の温もりに、三成の脳裏には先頃半兵衛に抱きしめられていた彼女の姿が浮かんで消えた。呼吸が上手くできないような、気道を見えない何者かに握られてしまったかのような息苦しさを覚えて三成は顔を顰めた。普段なら憎まれ口の一つでも叩くところであるが、月光に淡く照らされたnameの沈んだ面持ちを見てしまうと、なんと口にしていいかわからず、ただ何時ものように「ふん」と鼻を鳴らすのだった。

「私、やっぱり足手まといかな」

「弱音か、貴様らしくもない」

「半兵衛さまの言う通りにすればよかったのかもしれない」

「name」

三成は気色ばむ。これ迄培ってきたものを嘘だなどとは言わせない。幼少より豊臣の御為にと、共に刀を振るったあの時間を例え一度の挫折だけで無下になどさせはしない。事実、今日とてあの後nameは武功をあげたのだ。
重ねられたnameの手を三成が強く握る。

「貴様は私と家康と共に豊臣を担う将になるのだ。そのような戯言など許可しない」

「…そうだね」

「あれだけ啖呵を切ってこの様では半兵衛さまも嘆かれる」

「うん」

つ、と顔を上げたnameの透き通った真っ直ぐな視線に射抜かれ、三成は黙って頷いた。

「!」

三成同様に、気配もなく影だけを共にした半兵衛がゆらりと障子の端から姿を現す。いち早くそれに気が付いた三成はすっとnameから離れ、一礼すると部屋を後にした。
ぺたりと畳に座るnameの手を引き立たせると、半兵衛は自室へと彼女を連れてゆく。
縁もたけなわとでも言わんばかりの賑わいが遠くで響く中、二人が歩く廊下には冬の気配すら混じった冷たく静かな夜が満ちていた。数歩先を歩く半兵衛の、足を進めるたびに覗く白い踝を眺める。嫋やかな外見にそぐわずごつごつとしたそれをnameは不思議に思った。
見慣れた部屋、嗅ぎ馴れた香り、それでも今宵はそれらの全てが、どこかいつもと異なっていた。無造作に生けられた山査子の花が、淡く揺れている。半兵衛は無言で褥にnameを導いた。その頬は酒が入っている所為か、いつもよりも赤みが増し血色がいい。

「name」

「はい」

腕枕をされたnameは間近に見る半兵衛の長い睫毛の先に、何かを探す。病弱そうな見た目をしているこの人は案外しっかり筋肉が付いていて、こうして身を寄せるとそれがはっきりとわかる。それに、とnameは思う。今日は殊更その気配が強い。もしかしたら。

「僕はきみを抱く」

「……」

「いけないことをしているような気がしてね。でもきみは今日、もう僕に守られるだけの存在ではなくなった」

愛おしそうに、けれど半兵衛の声にはどことなく寂しさが混ざっていた。
今日迄数え切れない夜を二人は共にした。それでも一線を超えることはなかったのだった。半兵衛はすぐ側にあるnameの顔をじっと見つめる。濡れたような瞳はあの日初めてnameを見た時と同じように、黒々とした静謐を湛えていた。耳朶の産毛をそっと撫でるとnameは擽ったそうに半兵衛の胸元に額を寄せる。血に塗れたnameはもういない。ただひたすらに無垢で純粋な少女が、彼の腕の中でその身の全てを委ねていた。
障子を通して月明かりが部屋を淡く照らしている。そっと、半兵衛がnameの唇を塞ぐ。半兵衛のしっとりと着慣らした夜着の肩辺りを、nameの小さな手が掴む。頤を滑る手に、彼女は静かに瞼を閉じた。

明くる朝、戦の翌日だというにもかかわらず胴着と袴に身を包み竹刀を交わし合う三成と家康は、中庭に面した廊下をこちらに向かってくるnameの姿を見つける。おーい、と手を振る家康に気が付いたnameはいつものように小さく胸元で手を振り返すと、そのまま手前の角を折れて行った。三成は何も言わず消えていくnameの背中を見送った。

「……」

「三成…」

「言うな」

ぶっきら棒にそう言った三成は竹刀を高々と頭上に掲げ、何かを振り払うかのように腕を下ろした。

【初陣の話】
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