「別れてください」 そう言われたのはいつの事だったか。 理由はなんとなく分かる。 友人関係から始めて付き合いも長くなり、お互いもう良い歳。周りの友人達が次々に結婚していく中で、自分は相応しくない、普通に結婚して普通に生活するのが俺のため──とか、たぶんそういう事だろう。柳生の考えそうな事だ。 だからといって引き下がる俺ではない。柳生の気持ちが変わったのなら少しは考えるかもしれないが、そうではない。むしろ柳生は、別れを口にしながらも俺を好きでいてくれているし、俺の気持ちだって変わる事は無い。 正真正銘、相思相愛。 柳生だって分かっているはずなのに、いつかこうなる事は予想していた。長年の経験から。 問いただしてみれば案の定で、別にショックは無い。無いつもりだった。 別れる別れないの話は、とりあえず保留。なんとか柳生を説き伏せて、一緒にベッドに潜り込む。今日は何もしない。しかし隣から寝息が聞こえ始めた頃、それは急にやってきた。 悶々として重く、釈然としない気持ち。腑に落ちない本心。 思いのほかダメージを受けていたのは、自分でも意外だった。けれど、どうする事もできない。 「……だからさ、オレンジを入れてみたわけ。うちの店じゃ柑橘系使ったのはあんまり置いてなくてさ……これ、その試作品な。先にジャッカルに食わせてみたから悪くないはずだけどお前等も食べてみてくれねえ? で、何か意見があれば正直に教えてくれよ」 「お前が作ったヤツにハズレがあるとは思えないがのう」 「うわっ、仁王が褒めるとか気持ち悪い。頭でも打ったか?」 「失礼じゃろ、それ」 「やっぱ頼りになるのは比呂士だな。ってわけで比呂士、頼むな!」 笑いながら言う丸井の言葉が耳に入ってないのか、柳生はぼーっとしたまま何の反応も示さない。 「……比呂士? おーい、比呂士?」 「え……?」 丸井の言葉にようやく反応したのは、数秒の後。何を言われているのか分からないのだろう。柳生はキョトンとして数度瞬きをした。 「どうしたんだよ、ボーっとして。俺の話聞いてなかっただろぃ?」 「すみません……」 「疲れてんのか? まぁいいや。試作のクッキー入れといたから二人で食べろよ。で、感想シクヨロ!!」 じゃあな──そう言って笑いながら、丸井は店に戻って行く。 柳生が他人の話を聞かないなんて事、普段なら有り得ない。余程疲れているのか、あるいは──…… 「疲れとるようじゃのう、柳生」 「えぇ、まぁ……仕方ないですよ」 柳生の勤務先である病院の事情は聞いている。全員が忙しいのは分かるが、それにしても疑わずにいられない事も多い。例えば、若手のシフトとか。 「今日は俺が夕食作るかのう……柳生は帰ったら少し眠りんしゃい」 「大丈夫ですよ、仁王君。私なら平気です」 「柳生、今日はこれから夜勤じゃろ? 寝れるうちに寝ときんしゃい」 「大丈夫です。突然の事で変則的な勤務とはいえ、病院でも仮眠は取りますし……」 「柳生が言う事きかんならエッチな事してもっと疲れさせて無理に寝かせるしかないのう」 「仁王君……!」 辺りを見回した柳生は、誰もいない事に安心したのだろう。ホッと胸をなで下ろしたように息を吐いた。 それがおかしくて笑えば、今度は思い切り睨まれた。 「柳生が夜勤じゃなかったらのう……一緒に飲みに行けたんじゃが」 「おや、どなたかと飲み会ですか?」 「ジャッカル。丸井も時間ができたら顔出す言うてたのう」 ──と、柳生が慌てたように携帯電話を取り出した。柳生はいつもマナーモードにしているから、着信音は鳴らない。 ディスプレイを見るなり溜め息をつく様から察するに、おそらくは病院からのものだろう。 柳生が通話を終えてから問うてみれば、案の定。 「これからすぐに行かなければならなくなりました」 「でも柳生、夜勤じゃろ?」 「ですからそのまま当直に入ります」 「内科部長も意地悪じゃな。柳生が当直なの知っとるやろうに……柳生以外のヤツは無理なんか?」 「皆さん忙しいんですよ、きっと」 「都合良く使われよるようにしか思えん」 「考えすぎです」 「……大丈夫か?」 「大丈夫です」 「本当に?」 「平気だと言ってるじゃないですか。口説いですよ、仁王君」 「無理は──」 「──無理しないとやってられない時もあるんですよ」 言ってから、柳生がハッとして口を噤んだ。 紳士と評される柳生である。俺を邪険にするなど、そんなつもりは無かったのだろう。ところが口から出たのはあからさまな否定の言葉で、当の本人が一番驚いているようだ。 俺が考えている以上に柳生は疲れているらしい。溜まったストレスが、柳生自身の感情をコントロールできなくしている。 「すみません……」 「やーぎゅ」 バツが悪そうに俯く柳生を、静かに抱き寄せる。 「帰ってきたらブンちゃんがくれたクッキー食べよな? そん時は俺が紅茶いれちゃる」 「……仁王君」 確かに疲れやストレスもあるだろう。けれどもしかしたら……昨日の一件も一因としてあるかもしれない。 もしそうなら、深く考えさせてしまった俺にも責任がある。柳生の心の拠り所になりたい。 軽くキスをして精一杯の笑顔を見せてやれば、柳生は少し恥ずかしそうに笑ってくれた。 俺がショックを受けている場合ではない。 俺が柳生を守らなければならない。 なのに。 ジャッカルと飲みに行った俺の記憶は、店を出てしばらくしたところで途切れている。覚えているのは、強い光と鈍い衝撃。 気が付いた時には、柳生が甲斐甲斐しく俺の世話をしていた。何故か俺は通院していてその主治医が幸村だったり、偶然を装って定期的に柳が俺を訪ねて来たり……ワケが分からん。 大規模なドッキリを仕掛けられた気分。 しばらく様子を見ていた結果、分かったのは俺は事故に遭って記憶喪失であったらしい事と、そんな俺を柳生が取り戻そうとしている事。 柳生が可愛く思えた。 少し前まで別れたいと言っていた柳生が、俺を取り戻そうと必死になっている。それだけで嬉しかったのに、奇妙な考えが俺の脳裏を支配した。 このままでまた新しい関係を作れば、柳生と上手くいくんじゃないか? 柳生はもう、別れる等と言わないのではないか? そして俺は、“記憶を無くした俺”を演じる事に決めた。 |