その日、私は当直でした。

そしていつかの如く何度も鳴る空き部屋からのナースコールに怯える看護師達に変わって、見回りに来ていました。

相も変わらずというか、なんというか……真夜中の病院というものは不気味で仕方ないです。

背後に感じた気配を無視して目的地である303号室に向かっていた時の事です。


『無視せんでも良いじゃろ、やーぎゅ』

「やはり君ですか、仁王君……」

『柳生は今日も可愛いのう』

「それはどうも」

『あとでいつもみたいにやらしい事するぜよ』

「それは……っ」

『嫌じゃないじゃろ? それにいい加減こっち側に来んしゃい』

「恐ろしい事をサラッと言いますね。それは私に死ねと言っているのですが分かっていますか?」

『おん』

「肯定しないでください」

『本当の“仁王雅治”は柳生を愛してないけど俺は柳生を愛しとる』


それは……現状では事実です。

言い返す事ができず黙ってしまう私には構わず、彼は続けました。


『柳生が求めよるのはそれだと思ったけど……違ったかの?』

「──着きましたね、304号室」


仁王君の言葉を無視して、私が示したのは、昔の病室を彷彿させる304号室。突然現れたそこはあるはずないにもかかわらず、さも当然の如く私達の前に佇んでいます。


『あーあ。また俺だけ仲間外れじゃ』

「仕方ないでしょう? そもそも君は入る事ができないんですから」

『どうせまた幸村がおるだけじゃろ』

「まぁおそらくは。それじゃあ行ってきます」


ドアノブに手をかけると、躊躇う事無く扉を開ける。以前見たのと同じ室内。

それからなんとなく振り返った私は、以前と違う様子に驚きました。


「……仁王君?」

『ん?』


以前もドアを開けて振り返りましたが、既に仁王君の姿は見えませんでした。

その事実を仁王君は知らないのでしょうか。私を見ながら首を傾げつつも、仁王君はまだそこにいます。

しかし何故──……

ふと思い当たる事があり、仁王君を手招きしました。


『何じゃ?』

「一緒に来てください」

『俺入れんのじゃろ?』

「良いから早く!!」

『……何の嫌がらせじゃ』


文句を言いながらも仁王君は来てくれます。彼が部屋に足を踏み入れた時、お?、と言ったのは仁王君自身でした。


『入れた?』

「入れましたね」

『……で?』

「あ、いえ別に……」


そうです。仁王君が中に入れたからといって何かが変わるわけでもありません。

その様子を見ていたのでしょうか。室内からクスクスと笑う声が聞こえました。


「何してるんだい、2人とも。突っ立ってないで座れば?」


そう言って椅子を勧めてくるのは幸村君。やはりというか、何というか。

それから、もう1人。


『あー、良かった。やっと俺の仕事が終わるッス』

「それはどうかな?」

『えー、それは無いッスよ幸村さん。それじゃご褒美またお預けじゃないッスか……』


拗ねてみせる切原君は、私のよく知る彼そっくり。しかし目の前にいる切原君は不思議なオーラを纏い、普通の人間でない事を感じさせます。

以前お会いした時は当然の如く元々そういう存在だと認識していましたが、記憶を取り戻した今では違和感しかありません。


「赤也の事は前に話したよね? でも柳生が知る赤也にこの部屋の事を話しても分からないよ。あの赤也とは全く違う存在だからね」

「……切原君じゃないんですか?」

「赤也だよ。赤也の中にいるもう1人の赤也。ま、そんな事より……柳生」

「はい?」

「どうして仁王もいるんだい?」


それを一番聞きたいのはおそらく私だと思うのですが……そうですか。つまりは幸村君にも分からないのですね。


「憶測で構いませんか?」

「うん」

「たぶん……本物の仁王君が退院した事が関係しているのではないかと……」

「あぁ、そういう事」

「あくまで憶測ですよ?」


当の本人をちらりと見やれば、切原君と何やら楽しげに話しているところでした。

本物の仁王君と切原君は妙に気が合うらしく、学年が違うとはいえ学生の頃から仲が良かったのです。それは記憶が無い今も変わらないのでしょうか。

本質的には変わらない仁王君。もしかしたらそうなのかもしれません。


「それじゃあ今なら精神科病棟にも行けるのかな?」

「おそらく。本人に確認したわけではないのですが」

「ここに入れたって事はそういう事だろ。だけどそれはつまり……」





──彼は本物の仁王君とは接触できない。





幸村君は口にはしませんでしたが、つまりはそういう事です。彼等が接触すれば何らかの変化があるかもしれないと考えていましたが、それ以前の問題のようです。

同じ事を考えていたのでしょうか。少しの沈黙の後に幸村君が話題を変えたので、私もそれに乗っておきました。

たぶん本題は別にあったのだとは思いますが、半強制的に呼び出した本人が雑談を始めたのです。幸村君の中ではひとまずの結論が出たのでしょうから。

それからあまり間を置かず、私と仁王君は304号室を後にしました。




















「……で、仁王はどうだった?」


柳生と仁王が帰った後、残された俺は赤也に問いかけた。


『どうもこうも……あれじゃ俺にはどうにもできないッス』

「それをどうにかするのがお前の仕事だろう?」

『それはそうッスけど……あの人ただの生き霊じゃないんスよ』

「……どういう事?」

『まぁ何ていうか──』


赤也が口にしたのは耳を疑うような言葉。聞きたくなかったかもしれない言葉。

それは仁王の記憶を取り戻そうとする柳生の努力を無駄にするようなもので、それを知ったら柳生はまた自らの記憶を作り替えてしまう気がする。

そんな、現実。


『だからその、はっきり言ってしまえば──』

「俺達にはどうする事もできない……か?」

『そういう事ッス……』


俺は無意識に溜め息をついていた。反面、赤也の言うことを信じてない自分がいた。心のどこかで可能性をまだ模索している──そんな感覚。


『あの、幸村さん?』


俺の様子を見て何かを感じたのだろう。遠慮がちに、赤也が言った。

いけない。不安にさせてしまったようだ。


「長居してごめんね、赤也。そろそろ帰るよ」

『あ、あの、幸村さん!』

「何?」


扉に手をかけたまま、振り返らずに俺は問う。


『柳生先輩にはまだ可能性があります。でも、それができるのは──』

「分かってるよ。俺は諦めないし、蓮二達だって……きっと“赤也”だって」


そんな事言わずとも赤也には伝わったはず。なのに口にしたのは、自分に言い聞かせるため。

少し、ほんの少しだけ、心が弱っているのかもしれない。


「御礼は近々するから楽しみにしてなよ」

『やった! 約束ッスよ、幸村さん!』


ニッと歯を見せて笑う赤也は、俺が良く知る赤也そっくり。

この赤也もこんなに頑張ってくれている。少しは報われて良いはずだ。それに──思い知れば良いとも思う。

大きく手を振る赤也に微笑んで扉を閉めると、すぐに304号室は消えた。代わりに広がるのは、うっすらと日の光が差し始めた連絡通路。

赤也との話を思い出す。先はまだまだ長いかもしれない。健忘には個人差があり、覚悟はしていたけれど……考えている以上に長期戦になる可能性も、否定できない。

無論、元のように過ごせる日が来るのならそれでも構わないけれど……

ふと思い出したのは、生真面目なアイツ。融通が効かずほとんど仏頂面な、だけど誰よりも皆の事を考えている、アイツ。

あぁ、ダメだ。やっぱり少し……弱っている。


「会いたいな……」


急に力が抜けてその場に座り込んだ俺は、知らぬ間に小さく呟いていた。










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