凛帆がこっちに来てから五日が経った。親とさつきがしつこいこともあり、部活にも行かず暇な夏休みを過ごす俺は掃除の手伝いに顔を出すことが多かった。
「だいちゃんいつもありがとうねー。夕飯作ったから、食べて行って」
「え、いいんすか」
「だいちゃんのママにも言ってあるから大丈夫よ。ただのカレーだけど」
「すんません」
切りがいいところで終わりにしてね、と言い残して去っていく。お腹すいたと言いながら凛帆が汗を拭う。日中よりは風が涼しいが、室内は相変わらず暑いまま。俺たちは半袖のTシャツの袖を更に捲った服装だった。
「だいちゃ...、大輝の腕」
リビングに向かって俺が前になり歩いてあると、後ろから声が聞こえた。
「筋肉すごい」
「そうか?」
「硬い?触っていい?」
聞いておきながら返事を待たずに指が触れる。後ろから伸ばされたそれは俺の肌と対照的な白さで。力を入れて押してもびくともしない腕に、凛帆は感嘆の声をあげた。なんだか少しくすぐったくて。
「細ぇ指だな」
俺の黒い肌に触れるそれを見て、思わず口に出してしまつた。そう?と言った凛帆は腕から手を離した。女らしい手だった、なんて考える自分を恥ずかしく感じる。
リビングに入るとテーブルの上にはいい匂いを放つカレーが置いてあった。凛帆とおばさんが向かい合って座り、必然的に俺は凛帆の隣になる。いただきますを言うと笑顔で返事をされた。少し辛めのそれは食欲をそそる。こうやって人の家で食事をするなんて久しぶりのことだ。
「うまいっす」
「本当?よかった」
「お水おかわりいる?」
「おー。サンキュ」
並々と注ぎ足されたコップを差し出されたとき、自然と凛帆の手に目がいって。勝手に気まずくなった俺は、手が交差しないように淵の部分を持って受け取った。
「だいちゃんは今でもバスケやってるんだって?すごく強い学校のレギュラーなんでしょう?」
この前母親から聞いていたのか、おばさんが話を切り出した。正直あまりしたくない話だが。
「まあ、そうっすね」
「そういえば、部活の話とか全然してなかったね!そうなんだー。ちっちゃい頃から大輝、バスケットボール抱えてたもんね」
部屋に飾ってあるんだよ、そのころの写真。嬉しそうに笑う凛帆に、どこかうしろめたさも感じた。俺の現状を知ったらこいつはなんて言うんだろう。怖かった。
「あら。なに凛帆、だいちゃんのこと呼び捨てしてるの?」
「え、あ...うん。この歳になってもちゃん付けって恥ずかしいじゃん」
「じゃあ、だいちゃんも凛帆のこと呼び捨て?」
「まあ......」
俺たちの顔を見比べながら、ふーんと言うおばさんの表情はにやにやとしていて。
「なんか二人とも大人になっちゃって。そうよねえ、中三だもんねえ。昔は家でも外でもだいちゃんだいちゃんって言ってたのに」
「ちょっとお母さん!いつの話してるの!」
「だいちゃんモテるでしょう。彼女いるの?」
「や、いないっすけど...」
「お母さん、大輝困ってるじゃん!」
「はいはい」
ごめんねと謝るおばさんに軽く返事をしながら、隣をちらりと見る。凛帆の顔はほんのり赤く染まっていた。スプーンを握る手の指先に少し力が入っていた。そのままカレーをすくって口に運ぶ。ふと目がこちらに向いて、俺は合わないように咄嗟にそらした。凛帆ともおばさんとも視線が交わらないように残り少なくなったカレーを見ながら、何となくいつもより速い鼓動を感じた。
夕飯をごちそうになって家を出るのは結局八時を過ぎた。俺の断りを振り切って送ると言い出てきた凛帆と一緒に家路につく。夜に女に送ってもらうなんて、とも思ったが、実際距離はそんなに離れていないわけで。こいつと一緒にいられる時間ももうあまりないのかと思うと、それ以上断る理由も見つからなかった。
「今日は長い時間ありがとね」
「どうせ暇だからな」
「そっか...」
少し声のトーンが落ちた気がして横を見れば、凛帆はどことなく寂しそうに口元に微笑みを浮かべていた。気になったがその顔をずっと見ることもなんだか心苦しくて、俺はまた、目をそらした。
「大輝、本当に彼女いないの?」
すぐに耳に飛び込んできた声は、いつも通りの明るさを持っていて。
「いそう」
「いねーよ」
「本当に?」
「本当」
「絶対モテてると思うけどなぁ」
「んなことねぇって。別に学校のやつらに興味もねーし」
お前こそいないのかよ。
そう聞こうとして、口を閉ざした。
ふと見た凛帆の瞳と見つめ合う。
さっき家で見たような、赤く染まった頬。
お互い目が合ったことに驚いているような、そんな表情だった。
今度はそらせなくて、そのまま固まってしまった。歩いていた足も、俺が半歩先を行くような格好で止まっていて。
身体が熱かった。
「っ、もうちょっとでだいちゃん家だよね!あ、じゃあ、この辺で!私帰るね、今日は本当にありがとう!」
「、おう」
はっとした表情を見せたかと思えば、早口でわたわたと言い残して俺に背を向ける。速足で遠のいていくその背中をぼんやりと見送った。
「はぁ......」
姿が見えなくなってから俺は空を仰いだ。東京の空は明るすぎて、星が全然見えなくて。頬に当たる風が少し冷たく感じた。
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