110930

日付が変わった頃にかかってきた電話は任務を告げた。瞼が少し重いまま、隣で眠る弟にいってきますとキスをしてってらっしゃいとキスをされ、着慣れたコートに身を包んで二人にしては少し広いマンションの一室を出たのが六時間前。炎の力を持ってすれば簡単だった任務はすぐに終わり、報告とシャワーを済ませて駆け足で朝日が登りかけた空の下を走る。途中のコンビニで昨日買い忘れた牛乳を購入し、近所に住むスーパー仲間の主婦と挨拶。マンションのロビーの郵便ポストで新聞を受け取った。二つ上の階の定年近いサラリーマンとエレベーターホールで会い、お疲れ様、と声をかけられた。住むのは10階建ての7階。隣人は元気の良い小学生が二人いる家族だ。わいわいと騒ぐ兄弟はどうやら朝食のパンを争っているようだった。昔の自分たちと重なって思わずクスリと笑みがこぼれる。ドアを一つ過ぎて、奥村、と表札を書いたのは弟だ。がちゃ、といつもの鍵束ではなく、キーホルダーに一本収まった銀色の鍵を取り出しロックを解除。そっとドアを開けたら、中から物音はしなかった。どうやら間に合ったようだ。ホッと溜め息。コンビニの袋と新聞と鍵を台所のカウンターに置いてリビングの奥の寝室を覗く。ダブルベットが半分だけ埋まっていた。なるべく足音を立てないように近づきかがむと寝息を立てる口に自分の唇を当てる。反射的に逞しい腕が腰に回って体を引かれた。うっすらと開く碧色の瞳。柔らかく笑って、自分も彼の首に腕を絡めた。

「雪男、朝だぞ」
「兄さんおかえり…」
「ん、ただいま」

雪男が抱きついた燐の体はシャワーを浴びたために石鹸の匂いがした。少し甘い匂い。前に雪男が良い匂いだといったものを燐は家と騎士団のロッカーに置いて愛用している。だから雪男にとってこの甘い匂いは燐の匂い。スンスンと鼻を鳴らして犬のように大好きな兄を堪能する。視界の端に映る彼の尻尾は嬉しそうに揺れていたが、突如としてピン、とまっすぐ立つ。どうしたのだろうと考えるよりも前に、体を包んでいた温もりが離れていった。

「お前今日教員会議だろ!?」
「…ああ…そうだね」

思ったよりも雪男は不機嫌な声を漏らす。が、燐にとってはそれよりも弟を仕事に送り出すという自分の役目の方が重要だ。バタバタと寝室を後にする。残された雪男がサイドテーブルからめがねを取り、リビングに行くと燐は既にキッチンに立っていた。紺色のシンプルなエプロンを着て、朝食の用意をしながら雪男に持たせる弁当を作っている。朝食と弁当の下ごしらえを前日の夜にするのは学生時代からの習慣で、何年も続いている朝の仕事の手際は見とれるほどに綺麗だ。機嫌を損ねていた雪男も、任務帰りだと言うのにもかかわらずこの甲斐甲斐しい兄の姿に口元が上がるのを抑え切れなかった。

「何ニヤニヤ笑ってんだよ、早く顔洗って来い」

決まって弁当に入る卵焼きを菜ばしで掴みながら、眉を顰め雪男を急かす。はいはいと上機嫌で雪男が洗面台に消え、コーヒーメーカーがドリップの終了を鳴らす。雪男は砂糖を小さじ半分。湯気が立つコーヒーカップと暖かいミネストローネ、牛乳、サンドウィッチ、カットされたオレンジ、最後に新聞。全て並べ終えて満足げに燐が頷くと、顔を洗い終えた雪男が戻った。

「今日は洋風?」
「パン安かったから挑戦してみようかなって」
「すごく美味しそう」
「見た目だけじゃねーよ」
「いただきます」
「どうぞめしあがれ」

きちんと手を合わせて、まずは中心に居られるサンドウィッチに手を伸ばす。口ではああいったもののやはり気になるらしく、弁当箱を包んでいた燐がそれを止めて雪男を見つめる。本人は気付かれてないと思っているのだろうが、バレバレで、そこがかわいいと思う。サンドウィッチは温められたパンがかりっとふわっと、食べ応えがありながらも朝ご飯らしく優しい味付け。美味しい、と素直に雪男が言えば、燐は目に見えてホッとした。しかし、口には出さない。

「じゃあ俺、シャツのアイロンするから。コーヒーなくなったら自分で注いでくれ」
「はーい」

燐は手早く弁当を包み終えると、水筒と一緒にそれを雪男の書斎にあるデスクの上、バッグの横に置いた。それから、洗濯場で乾燥機から乾ききった雪男のワイシャツをとりだす。雪男に皺のあるワイシャツを着せるのは燐の責任感が許さず、毎日雪男は折り目美しい襟に糊がのった新品のようなワイシャツを着ている。無論、ズボンやハンカチも。知り合ったばかりのものは全て雪男がやったのだと尊敬の念を抱くが、少しでも彼を知ればそれは兄の献身の賜物だと分かる。

「兄さん、ごちそうさま」
「おそまつさま!」

燐はアイロンをかけ終わったワイシャツとズボン、ハンカチを手にリビングに早足で向かい、新聞をたたむ弟にそれらを手渡す。

「食器そのままにして良いから着替えて来い」
「ありがとう」

食卓にあるのは空の皿ばかり。たまにはサンドウィッチもいいな、なんて思ってみる。食器を洗い場で水に置き、再び雪男の自室へ。ズボンのベルトを締めているところだった。クロゼットから適当なネクタイを見繕って襟を立てるように言う。雪男は素直に指示に従った。

「今日遅いのか?」

ネクタイを締めながら訊ねる。なんでもない日常の一コマだったが、雪男も燐もこういうゆったりとした時間を大切にしていた。そうだなあ、と雪男は今日のスケジュールを思い返す。

「小テストの採点が終わったら帰るから、普段と変わらないと思うな」
「げ、テスト…」
「兄さんが受けるわけじゃないんだからそんな嫌そうな顔しないでよ」
「お前のテスト難しいんだよなあ…、よし、できた」

キュ、とネクタイを締めるのは燐の役目。愛しそうに雪男はネクタイを撫で、デスクの上にある書類が不足ないかを確認する。その間に燐は弁当用の手提げに弁当の包みと水筒を入れ、雪男を見る。真剣なまなざしで書類をめくる弟は贔屓目なしにかっこよく、それが誇らしい。学生をやめ、塾講師と祓魔師を両立する弟は何よりも燐の自慢だ。やがて、雪男が全部確認し終え纏めてバッグに入れる。書斎を後にする後ろを手提げを持って燐はついて歩いた。

「はい」

行き着いた先は玄関。靴を履き終えた雪男に燐が手提げを差し出す。

「今日の夕飯、サンマのセールやるから焼こうと思うんだ」
「いいね、旬だし」
「もう秋だからなあ…あ、栗ご飯も作るか」
「頑張って仕事早く終わらせて帰ってくるね」
「おう、でも無理すんなよ?ちゃんと昼飯も食べろ!」
「兄さんが作ったものは絶対残さないよ」

なんとなく燐を残すのが忍びなくて、雪男は出て行くのを躊躇した。手元の腕時計はギリギリの時間を差しているのだが、どうしても彼を一人にするのは嫌だった。燐が任務に行った翌朝は決まってそう思ってしまう。

「いってらっしゃい」

燐が察した。ちゅ、と可愛らしい音を立ててキスを贈る。

「…いってきます」

苦笑して、雪男も燐にキスを贈った。








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