笑顔でいてほしいんだ
僕はずっと兄さんが大好きでした。
その根底にあるのは憧れと目標と偶像崇拝と依存心で、自覚はしていたけどどうにか抑えてきました。
兄さんに嫌われたくなかったから。
きっと兄さんはこんな汚らしい気持ちを向けられたら、弟といえど距離を置くだろうから。
それだけはどうしても避けたかったのです。
それなのに。
それなのに。
***
僕は言葉を失った。いうべき言葉を探すよりも前に、言われた言葉がわからなかった。文字通りに失った。
今こいつは、なんと言ったのだ。
目の前で足を組み手にティーカップを持ったこいつは。
「雪男、気を持て」
「大丈夫ですか?」
「メフィストっ、お前…!」
僕のとなりにシュラさんがいて、目の前にフェレス卿がいて、ここは正十字騎士団日本支部長室。
シュラさんの声は腹の底から響く怒号だったけれど、目の前のこいつは意に介さないらしい。
それはそれは愉快そうに――実際悪魔である彼からすれば人間は面白いのだろう、特に、僕の様な人間は――空になったティーカップを回して口を開く。
「判らない様なら何度でも言いましょうか」
「…いいですよ」
「遠慮なさらずに」
「判ってますから」
「あなたが一度判る…いえ、認めるはずがないでしょう」
「聞きたくねえんだよ糞ピエロ」
「そこら辺にしとけ、アタシも黙ってねえぞ」
「ふむ」
無意識に腰に手が行く。
「本部がサタン討伐作戦に奥村燐の投入を決定しました」
パンッ。
ザンッ。
フェレス卿の姿が消えた。
座っていたはずの椅子には穴と切り傷が深く刻み込まれている。
「…本気で撃たないで下さい」
くるくる。
背後で傘が廻る。手元から銃が消えた。隣を見ればシュラさんも奪われた様だ。
「冷静になりなさい、奥村雪男」
いつもと違う、真剣な色の声が頭に響く。
「私だって好きで言いたいわけではないのです」
がくり。
体から力が抜けた。
なんだ、この人は敵じゃないのか。
味方でも―――ないけれど。
兄さんの、味方。
「本部には、奥村燐の意志を尊重するように進言しました」
「おまえ…」
「とはいえ、断れば無理矢理にでも引っ張るでしょうね」
そりゃそうだ。
兄さんはそのために生かされているのだから。
「地下道の結界を一つ、解いておきます」
「…いいのか?」
シュラさんが驚いていた。
「奥村先生が結界を破ったと報告します。シュラ、時間稼ぎをしなさい。…いいですね?奥村先生」
「はい」
十二分だった。どんな形であれ、兄さんを救えたらそれでいい。
どんな泥だって罰だって受けてやる。
恐らくフェレス卿はそんな僕をよくわかっているのだ。
それでもいい。
それで。よかった。
「俺、行く」
支部長室に、その名の通り、りんと響いた。場にいた三人共、彼がいるとは思わずに話していたから(だからこその取引だ)あのフェレス卿でさえも一瞬表情を飛ばした。
僕は、言わずもがな。
なんで。小さく僕の喉が鳴いた。
なんで、ここにいるの。
なんで、そんなことを言うの。
なんで、兄さんがこんな目に。
必要、ないだろう。
言葉には成らないが、兄さんには確実に伝わっていた。
でも、兄さんは曖昧な笑みを浮かべるだけ。ねえ、嘘だと、助けてと、僕に言って。兄さんの願いなら、頼みなら、僕はなんだって叶えて、あげ
「そうですか」
フェレス卿。
いつもの、嫌な笑顔。
外側だけ。
「でしたら私は止めません」
「ああ、作戦はいつからだ」
「夜が明けて朝が来たら」
「りょーかい」
まるでおつかいを頼み頼まれるような会話だった。
僕はずっと遠いところで、一人で泣いていた。
***
悪夢。寝汗が酷い。息も洗い。くそう。
「っ、はぁ…」
全身汗だらけで気持ち悪いし寒い。
枕元の携帯を見れば、午前3時。寝たのは1時間前というわけか。夢が夢だったからどうも不安で、部屋の反対側に目をやった。
―――よかった、兄さんはちゃんといる。
僕はホッと胸を撫で下ろして、着替えるために起き上がった。
あんなことをしたのに兄さんがいるかいないかで一喜一憂する僕は、兄さんが居なくなったらどうなるのだろう。―――居なくなるなんて考えただけで泣きそうだ。
弱虫、治ってないなあ。
スウェットとトレーナーを箪笥から出して着替える。それだけなのに部屋が真っ暗だから手間取ってしまう。
そういえば、ここに来てすぐの頃、兄さんもよく悪夢を見ていたっけ。半年も経てばなんにもなかったみたいにしていたから、ほんの少しだけれど。
あの兄さんを抱きしめた腕に劣情が無かったと言えば嘘になる。
むしろ、頼ってくれる兄さんが可愛くて仕方ないくらいだった。
兄さんが忘れてくれた醜い思い出。
さて。
忘却は救済なのか断罪なのか。
「いけないいけない」
また、暗いことを、僕は。
決まってることを未練がましく。
首を振って、翌朝の朝食のメニューなんかを考えよう。お弁当だって楽しみだ。
…………………。
眠れそうにはないようだ。
ただ兄さんが眠っている手前、あまり部屋では動きたくないし…やっぱり出かけよう。
行き先にはあてがある。
僕は敷物代わりの上着を腕にかけると、机の上の小箱を開いた。
中には一つの鍵。鍵束に加えることのない特別で、窓からさした月明かりに頭の石が光る。
青色。兄さんの色。
対になるのは碧色の鍵で、それは兄さんが持っているはずだ。どこに置いていたか僕にも判らない。
青色の鍵を戸に差し込んで、ドアノブを捻る。
繋がる先は学園町の外れにある丘の上で、空と学園町が一望できる場所。
兄さんが見付けて、僕が秘密にした。
少し来るのが不便だったから、二本だけ鍵を作った。
飾りにお互いの色の石を。
子供の秘密基地遊びのようなものだ。
来るのは久々だったけれど、相変わらず静かで、なにも変わらない。最初から完成されていた。終わらない中途半端。始まりと終わりが類義語で、始まりと途中が対義語だ。
丘を少し降りたところの、緩やかにカーブを描く地面にねっころがると、空と町が一気に見える。
僕たちの特別なお気に入り。
『ここ、俺の指定席な!』
『じゃあ兄さんの隣は僕ね』
『おう、ちゃんと開けて置いてやる』
ふたり並んで、何気なく交わした会話。隣を許されたことが嬉しくてこっそり兄さんを盗みみた。
あの時兄さんは紛れもなく笑っていた。
それは悪魔ではなくその反対。
―――僕は、ただ。
そのままで居てほしかった。
笑顔でいてほしいんだ
(だから行かないで)
(だから、行くよ)
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