君には僕が必要だろう?


いい匂いが鼻孔を擽って、目を覚ました。時刻は7時、寝坊気味。

「…兄さん、帰ってきたんだっけ」

ゆっくりと体をあげ、伸びをする。多く寝たせいか体が軽い。
二日目。
気持ちのいい朝。
全てが元通りになった日。





台所を覗けば、やっぱり兄さんが朝食の用意をしていた。メニューはこんがり狐色の焼き魚に、湯気が立ちのぼるお味噌汁、ピカピカツヤツヤの炊きたてご飯、それからお新香や豆腐なんかも。

「おはようございます」
「ああ、はよーっ」

振り向いた兄さんの手元には二人分の弁当箱がある。
弁当を作っていたという話はしていなかった様な気がするのだが…クロから聞いたのだろう。

「何か、手伝うことありますか?」
「ん、じゃあ朝飯運んでくれ」
「判りました」

丁寧にお盆に皿を乗せていく。落とさないようにしっかりと。
気がついたら兄さんが手を止めてこちらを見ていた。

「なにか?」
「いや…なんつーか…」
「言って下さいよ」
「…えっと、その…敬語…って、前もそうだったのか?出来ればやめてほしいとか、思うんだけど」

僕は敬語を使っていたのか。言われて気がついた。
恐らくは、この目の前の兄さんを兄さんと思いたくないと、忘れられるなんて堪えられないと、そういう、ことなんだろう。
―――浅ましい。

「あ、嫌だったらそのままでもいいからな?」

無意識の中で眉間に寄った皺に、慌てて兄さんが言う。
悪いことをした。

「別にそんなことないよ、兄さんが嫌ならこっちに変えるさ」
「ありがとな」
「礼を言われる事でもないかな。…ご飯、運んでくるね」
「…なあ雪男」
「なに?」
「ちゃんと、思い出すからさ、待ってろよ」

兄さんが眉を下げて頬をかきながら言う。
一瞬。
僕はそれを否定しようとした。
思い出さないままで、忘れたままで、いいのだと。

「雪男?」
「、あ…ごめん。向上心のある兄さんにびっくりしてた」
「……お前って毒舌なのか」
「さて、どうでしょう」

にやりと笑ってごまかすと、今度こそ僕は台所を後にした。
兄さんの足元にいたクロが珍しくついてくる。

「あっ、クロ、つまみ食いすんなよ!?」

どうやら、料理に釣られたらしい。物欲しげに盆を見上げてとてとてと歩くがそれでは……あ。
転んだ。
…可愛いな。

「食べちゃだめだし…ちゃんとクロ用のご飯、用意してるだろ?」
「ニャーニャ、ニャニャ!」
お気に召さないらしい。あれ、高いのに。やっぱりクロも兄さんのご飯がいいのかも。
手元の料理に目を落とす。
おいしそうだなあ…。

「クロ」
「ニャ?」
「兄さんには秘密だよ」

ぱたぱたとクロのしっぽが振られて、僕はさて何にしようか、と思案に耽っていたら。

「ああああああっ」
「あ、兄さん」
「雪男まで何つまみ食いしようとしてんだっ」

残念な事に兄さんが来てしまった。

「なんで判ったの?」
「クロの声、高けぇからよく響くんだよ」
「もー…クロ…」
「いや、主犯お前だろうが、真面目の癖にこういう時だけ変わりやがって」

作ったの俺なのによー…と、兄さんが唇を尖らせ、ふて腐れる。いつの間にか笑みが零れていたのに僕は気づかなかった。
笑ってんじゃねーよ、と兄さんが言うまで。
幸せそうに、笑っていることに気がつかなかった。





学校の方は少し時間がかかるが、塾は今日から顔を出すのだと兄さんは言っていた。昼は検査の続きに呼び出されているらしい。
せっかくお弁当を作ってくれたのに一緒に食べれないのは残念だなと思ったが仕方ない。僕は一人屋上に忍び込んでとっておきを頂く事にした。
ここ一年で、僕は女性から自力で逃げる術を手に入れた。兄さんに頼らずに一人で撒く術だ。志摩くん曰く、いらない技術らしい。
だが、一人でいるのは随分快適なのだ。
それに今日は特に、兄さんが持たせてくれた、実に一年ぶりの弁当を味わう時間を誰にも邪魔されたくない。
と、思っていたのだが。

「なんで貴女が居るんですか」
「出会い頭にそれかよ」

シュラさんはにやにやと笑っていた。片手にはビール缶。
この人、昼間から飲んでるのか…。

「あ、それ燐の弁当か?」

酔っ払いのくせに目敏いシュラさんが、弁当の包みに手を伸ばしてくる。
バシッ。我ながらいい音。

「…ちょっとくらいくれたっていーじゃねーか」
「シュラさんはちょっとじゃ済まないでしょう」
「このブラコン」
「兄さんが兄でブラコンにならない方がおかしい」

だから、あげません。

僕にしてはやけにはっきり言ったと思う。シュラさんがククッと笑う。

「お前ってつくづく残念だよな」
「なんのことですか?」
「そこまで燐のこと好きなのになーんもしないこととか」
「………」

……今のは、痛かった。
シュラさんは続ける。

「お前ら両片想いなんだから押し倒すくらいいいだろ」
「まさか」
「ふん。…つーかさ、」

そのあとに続く言葉は容易に想像出来て、そして、突き付けて欲しくない現実。
だから僕はシュラさんを一睨みする。

「それ以上言ったら、撃ちます」
「判ってるなら言わせんなよ」
「それもそうですね、すみません」
「…なーんか、お前が素直って調子狂うな」
「前言撤回でお願いします」

にゃはは、とシュラさんは声を上げて、よいしょ、と立ち上がった。
ぽんぽん、と僕の肩を叩く。

「まあまあ、頑張りたまえ少年」
「ご注意痛み入ります、おばさま」
「お姉様、くらい言えるようになりたまえ少年」

ひらりと手を振り去っていった彼女は一枚上手だった。
シュラさんの言葉の続き。
なぜ、僕は何も知らない兄さんに弟だと名乗ったのか。
何も知らないなら―――言わなければ判らない。
僕らの最大の枷は、僕らが兄弟だったことにあるのだから。
それでも。
別に何もしなかった訳じゃなく。
あの日、確実に僕が兄さんを犯したという事実はある。
それをシュラさんが、僕と兄さんの最大の味方である彼女が知ったら、どういうだろうか。

「僕にはもう、兄さんと向き合う資格なんて無いんですよ」

いっそのこと、叱咤してくれ。
殺されたって構わない。
一番辛いのは罰すらなく何もされない事だというのは、この一年でよく判っていた。







君には僕が必要だろう?
(盲目に繋ぎ留めようとしました)

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