呼吸すら飲み込んで
前触れもなく、雪男は、時折俺に噛み付く。
例えば、人気のない、学校の授業中の廊下で。
例えば、放課後に、皆が帰った後の塾の教室で。
例えば、こうして、寝る前の自室で。
どこから始まるとは決まって居なくて、今日は耳だったりする。
少し痛いが、傷が治る便利な体だし、兄さん兄さんと掠れた声で、大切そうに呼んでくれるから、俺はそれを受け入れる。
「兄さん、兄さん」
「ん」
温もりと、伝わる鼓動が気持ち良くて、俺はゆっくりと目を閉じた。
すると、不服そうな雪男の声が降ってくる。
「僕、見て」
「ああ」
ぱちりと開けば、そこにいた雪男は安心したように笑った。
俺は、ふと気になって尋ねる事にした。
「な、雪男」
「なあに、兄さん」
「お前、なんで噛むの?」
目尻に口を寄せようとしていた雪男の動きが止まる。彼らしくない不安げな調子で、嫌だったの、と返ってきた。
「嫌だったら言ってる。ただ、なんとなくだよ」
「なんとなく、ね…そうだな、」
雪男は再び目尻に噛み付く。はむはむと柔らかく甘噛みしたあと、彼の唾液で濡れたそこをぺろりと一舐め。
「伝う涙を生んでいいのは僕だけ」
次に俺の左手をとって、薬指に噛み付く。
「誓っていいのも僕だけ」
腕。
「包まれていいのも僕だけ」
目。
「写っていいのも」
耳。
「声が届いていいのも」
いい加減くすぐったくなってきた。
「ゆき、お」
「全部僕だけだよ」
もったいないくらいの満面の笑み。俺は呆れた様に言った。
「そんなに好きなのか?」
「うん、愛してる」
「あ、そ」
少し、照れる。
する、と雪男が頬に手を滑らせた。
「でもね、兄さんの肌には結局何も残らないんだ」
「ああ」
「僕の証は何も」
俺は、転じて泣きそうになる雪男に、腕を伸ばす。俺が都合がいいと思っていたことは、こいつには都合が悪いことらしい。
それは、随分と嫌だなあと。
ふと考えながら、口づけた。
「…感覚に残してって?」
「言ったら悪いか」
「悪いわけがないよ」
呼吸をも飲み込んで
(貴方を刻んで)
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