キスをしましょう2

 *中学生奥村



 算数から名を変えた数学はますますわけの分からない暗号で、国語は日本語なんて喋ることができればいいだろなんて逃げてみて、英語なんかは筆記体が出てきた時点でお手上げだった。もともと勉強は得意じゃないし中学に入ってから燐の学校嫌いは拍車がかかっていて、このテストだって無理やりに雪男に引っ張られて受けさせられたのだ。そんなだから、返却されたテストの右上の数字は大きく一つ。一目で赤点とわかる、そんな調子の解答用紙が5枚並んだ。逃れたのは幸にも食物分野だった家庭科だけ。
 はあ、と五枚の解答用紙を前に溜め息をついたのは、燐に無理やりテストを受けさせた張本人の雪男だった。黒く縁どられたガラスのむこうで空色の目がスッと細くなる。双子ながら燐と雪男は弟の癖に生意気だと言うお決まりの文句すらも浮かんで来ない。
 放課後の、赤く染まる窓ガラスの向こうから部活動に励む声が聞こえる教室で、二つくっつけた机の端と端に向かいあって、燐はギュッと膝の上でその拳を握っていた。まっすぐに伸ばされているはずの背筋も情けなく丸くなっていてそこに悪魔の子だと罵られ遠巻きにされた少年の影はない。



「それで?課題は?」

 元々低く響く声が、いつもよりも心なしか暗くて燐はびくりと肩を揺らす。ちらりと弟を見て、震える手で鞄から紙束を取り出した。机に広がったテストを隠すように重ねる。五教科。高校ほどではないが中学もそれなりに多い。広げると燐はまた背中を丸めて肩を縮こませて膝上に拳を作る。
 雪男はいくつかにサッと目を通し、訊ねた。

「締め切りは」
「明日」
「……ちなみに貰ったのは」
「テストと一緒にさっき…ずっと学校サボってて、それで」

 はあ、と思わず漏れた声に燐がグッと息を呑んだ。本当にいつもの、悪魔なんていう仇名は何処にいったんだろうか。雪男はもう一度、今度は燐に判らない様に溜め息をついた。
 今は伏せられていて伺えないが、さっき恐る恐る雪男を伺った目は薄い透明の幕が張っていた気がする。

(どうせ、気にしなくてもいい心配をしてるんだろうな)

 仇名なんて所詮レッテルで、その中身は冬の暖炉のように暖かく、陽を一杯浴びた布団のように優しい。
 燐は優しすぎて、とてももろい。優しさで自分を殺す。だから雪男はなるべく、雪男の優しさは燐を包み込むようにしようと意識していた。

「早く片付けないと遅くなっちゃうね、頑張ろう」
「……うん」

 雪男はプリント類をまとめてまず一枚だけにした。務めて、仕草はいつもと同じように。
 一枚残したプリントは数学だ。俯きながら鞄を探っていた燐がふと手を止めてごめんと、呟いた。

「一緒に買い物、する予定だったのに」
「デートくらい別にまた今度やればいいよ」
「…買い物だろ」
「デートだよ、僕たち付き合ってるんだから」

 違うの、ととびきりの笑顔で訊ねれば、燐はぶわっと耳まで真っ赤にしてそれでも嬉しそうに羞恥に震えた。違わないと小さい蚊の鳴くような声が届くまでには随分と時間がかかったが、雪男はそれだけで十分だった。
 予想通りどうでもいいことを心配していた恋人が可愛くて仕方なくて、今にも机もプリントも吹っ飛ばして抱きしめたい気持ちになるのをグッと堪えて、一問目の問題をシャーペンで差した。
 別に外に行かなくても一緒ならそれでいいのだと、できれば彼にも気が付いてほしい。

「ねえ、兄さん」
「ん?」

 ぎりっと数式を睨んでいた目が起き上がって、柔らかく雪男を見つめる。
 ゆきお?と震えた唇は少しかさついているが。雪男は、その唇が柔らかいことも、甘いことも、知っている。

 ぺたりと貼り付けたキスはきっと愛しさを伝えるのには十分だった。




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 教室デート

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