休日の過ごし方について

 兄さん、と雪男は困ったように、ベッドの背中に声をかける。その度にぴくり、と動くあたり、寝ている仕草はフリだけで実際はちゃんと聞こえているのだろうが、声も、視線も、その背中――燐が返すことはなかった。
 かれこれ一時間、雪男は声をかけては無視をされるということを続けている。時刻は朝七時半、いつもなら学校に行く準備をしているが、今日は五月三日で、世間一般に倣って塾も学校も休みだった。しかし、いまこの場所においてその休日は悪い方向に働いていた。

 話は一時間前、六時半に遡る。

 学生で祓魔塾生の燐は、今日は休みであったが、普段日曜でも祓魔師や塾講師としての仕事をしている弟のために今日も朝早く起きて弁当や朝食の用意をしていた。
 つやつやぴかぴかの炊き立てのご飯、湯気が立ち上るシジミの味噌汁、ネギが入った焼き目美しい出汁巻き卵。焼き魚は昨日魚屋の親父がサービスしてくれた油の乗った良いやつだ。
 味見をして、納得の行った燐は、ちらりと時計を見てから良い頃合いだろうと自分の城である厨房から日課の様に雪男を起こしに六〇二号室に上がり、膨らみのある布団の山を揺らす。
 「ゆきおーあさだぞー」
 「ん……?」
 もぞもぞと雪男は頭を上げて薄く開いた目で燐の姿を捉えると柔らかく笑って、そっと腕を伸ばした。たくましい雪男の腕が燐をベッドに誘い込む。
 「おい、ゆきっ」
 「にいさん、おはよお…」
 にへら、という無防備な笑顔は優等生で真面目であらゆる意味で隙がないという世間の雪男のイメージからはほど遠いものだった。
 彼は、案外朝に弱い。いや、起きようと思えば起きられるのだが、どうも兄の存在があると安心感からなのか朝をゆっくりとしてしまうのだ。しかも、雪男にとっての燐の存在に、兄と、恋人が増えてからというもの、その傾向は更に進んでいた。
 ぎゅっと燐の腰を抱いて首筋に頭を埋めて深呼吸。それから、手当たり次第にキスを落としながら次第に意識が覚醒していく。
 「んっ…」
 「にいさん、にいさん」
 キスの雨が止んで、雪男の指がTシャツの裾から進入して燐の肌を滑ったところで燐はハッと、雪男の腕を取った。
 「遅刻、するぞ」
 朝の戯れは燐も好きだが、何度か遅刻仕掛けたことがある。雪男は殊にこう言うことに関して全く頼りにならないので、恋人とか兄として、しっかりしなければという気持ちが強い。
 しかし、燐の予想を反して、雪男は不思議そうに首を傾げた。
 「ぼく、今日おやすみだよ」
 「え」
 「だから、ね?いいでしょ兄さん」
 「……」
 「…兄さん?」
 固まった燐の手をすり抜けて再び燐の体の柔らかさや心地よさを堪能しようとした雪男は、その愛する片割れの様子が穏やかではないことに気がついて、手を止めた。
 俯きかけた頭の両側を手で挟んで、無理矢理に視線を合わせたら、沈んだ瞳とぶつかった。
 「………ない」
 「へ」
 「きいてないっ!!」
 海色の目が潤んで、ぐっと耐えるような表情をしたかと思えば、雪男の腕を振り払ってあっというまに燐は部屋の反対側の自分のベッドに潜んだ。
 残された雪男は行く先のなくなった手をふらふらさせながら訳が分からないと目をぱちぱちとさせたが、とにかく、自分が最愛の人を怒らせたということだけはどうにか理解したのだった。

 それから一時間。
 『兄さん』と『ごめんね』を繰り返してどうにか燐から原因を聞き出そうと努力をしていたが、一向に事態は好転しない。
 正直、雪男は焦っていた。いつも、燐は雪男が学校や仕事でストレスを溜めているとそれを敏感に感じ取り、例えば雪男の好物の魚を食卓に並べてやったり、雪男が甘えやすいように自分からはなかなか取らないスキンシップをとってみたりする。雪男にはそれがたまらなく心地よくて、気がつけば心を埋め尽くしていた嫌なことを忘れて、燐に対する愛しさで気持ちがいっぱいになっているのだ。
 しかし、双子であっても、それは兄としての部分が成しうる技ようで、やっぱり自分は兄のことをちゃんと知らないのだと、改めて思い知らされた。
 はあ、と情けなさに出たため息が、次第に薄くなって古い床板に沈んでいく。
 そのときである。
 「なあ」
 「!! な、なにっ?」
 相変わらず見えるのは背中だったが、燐から声をかけられたことにどきりとした。しかし、燐の声に普段の覇気はなく、淡々と呟くようなもので、聞き逃すまいと耳を立てた。
 「俺とお前ってさ、こいびと、だよな」
 「…嫌になった?」
 「最後まで聞け」
 「はい」
 言われたとおりぐっと口を結んだ雪男に、燐はそういうわけじゃないから安心しろ、と言って、話を続ける。
 「俺、これでもお前の健康とか生活とか、忙しくない分支えてやろうとか思ってるんだ」
 「うん」
 「だから休みの日とか休ませてやりたいんだよ、いつもよりゆっくり起こして、朝ご飯も落ち着いて食べれるようなもの用意してさ」
 ―――あ、泣く。
 不思議と、いつもは判らない燐のことが直感的に感じ取れた。
 「でも、言われないと休みの日とかわかんねーから…」
 一歩、雪男は燐に近づく。ギシリと床板が鳴いたが、燐は気がついていないようだ。
 「もし、お前が言わなくても察してくれるようなことを恋人に求めてる、ん、な…!?」
 背中に感じた温もりに、燐はびくりと肩を揺らした。雪男が背中越しに、燐にしか聞こえないような声で言う。
 「ごめんね、兄さん」
 繰り返していたのと同じ響きなのに、厚みのある言葉になったのは、きっと心が籠もったからだと、雪男は思った。なにすんだ、はなせっ。という震える声に構うことなく、逃げだそうとする細い体をぎゅっと抱きしめる。炊き立てのご飯や味噌汁や厚焼き卵や焼き魚の優しい思いやりの匂いが雪男の鼻孔をくすぐった。
 「兄さん、好き」
 「!!」
 「大好き、愛してる」
 「やめ…っ」
 口を塞ごうと伸びた手を掴んで、強引に見た顔は、涙目で真っ赤に染まっていた。燐の目をまっすぐ見つめて、燐がそらすことを許さないかのように視線で射抜く。
 りん、と普段呼ばない名前を呼ぶ声も、返事も、掠れていた。
 「僕の恋人になってください」
 「…もう、なってるよ、ばか」
 ―――ああ、愛しいなあ。
 じわりと温もりが広がるのを感じる。
 そして、どちらからと言うわけでもなく、自然と唇が重なった。

 「せっかく早起きしたし、朝ご飯食べたらどこか出かけようよ」
 「え、でもせっかくお前休みなんだし家で休んでた方が」
 「寝てるよりも兄さんとデートできる方が癒されるかなあ」
 「しししし仕方ねーなっ」
 「デートそんなにうれしいの?しっぽ揺れてる」
 「言うな!!」
 「はいはい」


End


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