卒業


*中学生


 きゅぽ、きゅぽ、と卒業証書の入っていた筒が鳴る。ふと、飽きを感じて燐はふと枝先の梅の蕾を見た。今年の冬は寒く、いつもならこのころにかわいらしい花を咲かせているはずの梅の木はまだ、芽吹きの時を待っているようだ。卒業式の日に、わざわざ校舎裏の廃材置き場などに足を運ぶ物は置らず、グラウンドや教室の賑やかさが時折ぼんやりと聞こえるだけで、この場所はとても静かだった。しかし、燐はここの梅の花が綺麗なことを知っている。結局、授業は半分以上に出ず、そういった時間はここや、学校と修道院の間にある神社や公園なんかで過ごしていた。だからといって授業以上の何かを学べたとかそういうわけではなく、その逃避は、一種の諦めだったのだと思う。悪魔と呼ばれた自分、生い立ち、弟、それらからの。燐が今こうして卒業式の後のクラスの時間を抜け出しているのも、逃避の一つだった。

***

 中学を卒業する今日の朝、仕事で卒業式には出席できないが門の前で写真を撮るのだと意気込む藤本に急かされながら、着崩していた学ランに袖を通していた時のこと、学年代表として読む答辞の原稿を読み通していたはずの弟がふと顔を上げて言ったのが始まりだった。

 「兄さん、今日は一緒に帰ろうよ」
 「は?」
 
 上まで止めた詰め襟が苦しくてどうしようかと鏡を見ていた燐は素っ頓狂な声を上げて雪男を振り返った。空色の目がすっと細くなる。

 「兄さんのクラスは記念撮影が最後だから、待ってる」
 「いや…俺、卒業式だけ出てクラスの方はサボる」
 「最後くらい出たらいいのに」
 「いつも居ない奴が居ても仕方ないだろ」

 わざと突き放すような口調で言えば、呆れたように眉を下げた雪男は何も言ってこないだろうと、そう燐は踏んでいた。きっと、雪男が燐を待って学校に一人残っているのを女子たちはめざとく見つけ、ここぞとばかりに話しかけてくるだろう。弟は、モテる。燐は、自分がそんな光景を見いるのに耐えられないだろうことを知っている。雪男への劣等感ではない、女子への劣等感だ。好意を伝えてもおかしくない立場にいる彼女たちを燐は羨ましく思う。
 本当は、クラスだって出る予定だったのだ。担任にも最後くらい顔を出したっていいだろうと言われている。しかし、なのだ。
 だが、雪男の反応は燐の予想通りではなかった。

 「じゃあ僕が終わるまで待ってて」
 「はあ!?なんで!?」
 「兄さんと一緒に帰りたいから」
 「めんどくせー、やだ」
 「頼むよ兄さん」

 うっ、と燐は詰まった。雪男はいつの間にか弟の顔になっている。卑怯だ。いつも弟らしくないくせにこう言うときだけ弟の顔をするなんて。

 「………わかった」

 気がついたら、そう答えていた。

***

 かくして、燐は甲斐甲斐しく弟の望みを叶えてやるためにこうして待っているのだった。校門じゃないのは些細な抵抗だ。クラスでの集まりが終わって、兄を捜した雪男が見つからないからと帰ればいいのに、と。
 燐の、雪男に向ける、恋と呼べるかもわからない小さな愛情は、決して、枝先の梅の蕾のようにいつか花開くような物ではない。花があるかも判らない、見つけられたら抜かれてしまうような雑草に似た想いだ。しかも、雑草ほど簡単に消えてはくれない、やっかいな部分を持ち合わせている。
 しかし、今日を過ぎれば、雪男は高校に行き、燐はおそらく就職する。別々の道を歩み始めるのだ。

 燐は、ふと遠くの声が止んでいることに気が付いた。空を仰げば端の方が紺色に染まり始めている。ずいぶん時間が経っているようだった。

 「…帰るか」

 どうやら、狙い通り帰ってくれたらしい。一抹の寂しさを覚えながら燐は卒業証書をバッグに仕舞うと、それなりにお世話になった廃材置き場を後にすることにした。
 一度、この廃材置き場で乱闘を起こしたことがある。先に喧嘩をふっかけてきたのが向こうだったこと、大人数対一人だったことを考慮されて三日間の停学処分で済んだが、藤本にはこっぴどく叱られた。燐は、傷や痣があるものの比較的軽傷で済んでいたが、相手は半分以上が病院送りだったのだ。やりすぎだと、叱られた。自室に戻れば待ちかまえている雪男に嫌味を言われるのだろうなと、嫌々入れば、雪男はなにも言わず燐を抱きしめて、手当をしてくれた。とても、泣きそうな顔をしながら。どうしてお前が泣きそうな顔をしているんだ、という言葉は出てこなかった。…思えば、あのときだ。

 「兄さん!」

 雪男の声を拾って、燐ははっと我に返った。びくりと肩がふるえる。校舎の方から雪男の足音がして、その姿がはっきりと現れる。
 帰ってるんじゃなかったのか。
 もしかして、いや、絶対、今の今まで女子に囲まれていたのだ、この弟は。太陽が沈みかける時間まで、確かに朝はついていた学ランのボタンが売り切れるまで。ギュッと、心臓が締め付けられる。

 「帰ってるかと思った」

 しまった。今のは棘のある言い方だった。雪男が女子のそういう行動をあまり好きじゃないのは十分わかるし、本人もよく疲れたように口にするから。この状況を雪男が望んでいないのは良く知っているのだ。だからこそ、この反応はおかしい、もしや最後の最後で想いがばれたりするのかもしれない。雪男は無言だった、無言が怖い、何か、何か。燐はいたたまれなくてちらりと雪男を見やった。怒っては、いないだろうかと。
 雪男は、ただ困ったように眉を下げて笑う。

 「待っててくれてありがとう、帰ろう?」

 よかった、気付かれてはいないようだ。燐がホッと胸をなでおろしていると、燐の右手が、雪男に掬われる。気が付いて、振り払おうにも案外力が強くてできなかった。大きな、暖かい手。いつか、燐ではない誰かを愛するのだろう。

 「兄さんの手、冷たい…ごめんね」
 「べつに」

 困ったように雪男がそっか、と言って歩き出した。その一歩後ろを燐は自分のつま先を見ながら続く。
 顔が熱くて、胸が痛くて、仕方なかった。



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フォロワーさんの合格と誕生日と卒業と進学祝いに押し付けたもの

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