砂糖を一匙
*聖騎士燐と部下雪男のお話
*ねつ造です
聖騎士といえば、悪魔の甘言に耐えうる強い忍耐と人々を守り抜く正義を掲げ、祓魔師の目標となり手本となり信頼となる人間だ。雪男の養父・藤本獅郎はその『聖騎士』をそのまま体現したような男で、死して十年近く経った今でも面影は心の底で雪男を支えている。
だからこそ、雪男は目の前の現状に頭が痛くなるのを余計に感じた。全く減っていないどころか数束が床に散乱してしまっている書類と、眠りこける一人の小柄な男。何を隠そうこの部屋は現・聖騎士奥村燐の執務室である。つまり、平和そうに涎なんか垂らして寝こけている男はあの獅郎と一緒の聖騎士として認められている、はず、なのだ。
はあ、と呆れからくるため息が広々とした室内に消える。雪男は上質な絨毯にブーツの音を吸収させながら歩み寄って、燐の傍らに立ち、少し身を屈めるとその寝顔を眺めた。
閉じられた瞼は長い睫が飾り、頬は少し赤みを帯び、涎で光る唇は淡いピンク色で形よく、すうすうという吐息でふるえている。
たった3分、事務連絡を済ませに席を外していただけなのに、彼はなんであっさりと寝てしまうのだろうか。眉を寄せ、持っていたファイルの角で燐の頭を殴る。スパァン、なんて軽い音ではなく、ゴッという重たい音。
「っだぁ………」
燐は目を擦り擦り欠伸を一つしてゆっくりと首を上げ、恨めしそうに睨んだのは当然、きゅっと口元を結んで冷たい視線をこちらに送る雪男である。3分といえど、聖騎士の執務室は日当たりも風通しもばっちりなので最高の居眠り空間、気持ちよくない訳がない。
「奥村さあ、もうちょっと優しく起こせないわけ」
「いい眠気覚ましになったと思いますが」
文句を言う方も言い返す方も仕事の顔だ。
「流石に角はねーだろ、聖騎士様に角はっ」
「聖騎士様だったら書類くらいちゃんとやって下さい」
「………やってたし」
「僕が席を外したたった三分で眠っていたのに?」
「うっ………」
早々に燐は言葉に詰まった。
聖騎士と直属の部下でも、燐が双子の弟の雪男にに勝てる訳はない。実践派の燐は聖騎士の地位を得るのも正攻法で悪魔の力を最大限に利用してひたすら実績を積み重ねていた。雪男はその監視役として直属にされたのだが、それは燐の実践ばかりでデスクワークが得意でない面を補う為でもあった。
だから、口喧嘩を仕掛けても燐は雪男に勝てない。せめて手を出さなくなったのが成長とも言えた。
雪男はさらに追い打ちをかける。
「全く…聖騎士になってもうすぐ半年ですよ?いい加減仕事を一人で出来るようになって下さい」
「仕方ないだろ半年間休み無しだし、ここ最近ろくに寝れてないんだぜ」
「せいぜい三時間でしょう、贅沢言わない。大体僕は二時間であなたよりも少ない」
「仕事人のお前はいいんだろうけど、俺はこういう細かい仕事、嫌いなんだっ!」
ついに燐はペンを置いて駄々をこね始めた。雪男の眉がぴくりと動くが、かまわず次々と欲望を口にする。買い物に行きたい、すき焼きが食べたい、クロと遊びたい、料理がしたい。
随分と身勝手だと思った。燐の仕事時間が長い理由の半分は彼自身にあるのだ。雪男が言うならともかくそれを燐本人が言うのは筋が違う。
(でも、日本に帰りたいとは言わないんだ)
ヴァチカンに異動になってから数年、かつての級友とはしばらく会ってないし、日本に帰るのは年に一度、養父の墓参りをするためだけにせいぜい数時間だ。聖騎士になっても依然燐への風当たりは強い。あの正十字の地が一番彼にとって居心地のいい場所であることは雪男も知っていた。
ーーー知っているし、誰よりも分かってあげられるからこそ。
「…来週の水曜日、夕方から半日」
「へ?」
相変わらずつらつらとやりたいことを並べ立てていた燐がぴたりと言葉を止め、雪男を見てぱちぱちと瞬きをする。しかし、彼は愛用の黒革の手帳から目を離さず、ペンを動かし、続きを言う。ただし、口元はとても柔らかく笑って。
「今目の前にある書類を今日中に片づけて三日で五つ任務をこなせば、その時間は開きます」
「まじ?」
「嘘をつく理由が見あたりません。さ、お休みのために頑張って下さい、奥村聖騎………兄さん?」
思わず仕事の口調からプライベートの呼び名に戻ってしまったのは、顔を上げた燐がやけに真剣な顔で雪男を見つめていたからだ。てっきり、満面の笑みを浮かべているかと思ったのに。穏やかだった顔が崩れるのを押さえられず、口調も暗くなる。
「どうしたの?一日がいいとか贅沢言わないでよ?」
「いやいやいや、半日で十分大満足!」
「じゃあ何が不満なの?」
「不満じゃなくてその……奥村…、雪男はそれで大丈夫なのか?」
「は?」
こんどは雪男が目をぱちくりさせる番だった。
「俺が動くって事はお前も動くってことじゃん」
「監視役だからね」
「俺は悪魔だし体力だけが取り柄だからいいけどお前はそうは行かないだろ?そんなハードスケジュールで体持つのかよ」
「なんだ、そんなこと」
単純に呆れたような、仕方ないな、なんて顔で雪男が続けた。
「最年少天才祓魔師も舐められたものだよね、正直今よりも高校生の時の方が忙しかったんだから…兄さん今もだけど今以上に考え無しで監視も大変だったし」
「今もってなんだ、今もって」
「思い当たる節が無いとは言わせないよ」
「………」
ぱたん、と雪男の手帳が閉じる音。
その、来週の水曜日の日付に丸印がされているのを燐は見逃さなかった。じんわりと、暖かい何かが広がるのを感じる。
「お休みのために頑張りましょうね、奥村聖騎士」
「お前は本当によくできた部下だよなあ」
「お褒めに与り光栄です」
すっかり仕事の顔になったけれど、その返事に微かな甘さが混じってるのが分かって、燐は今度こそにやけるのを堪えられなくなった。
「お前のそういうとこだーい好き」
「お礼は魚料理と兄さんでよろしく」
「楽しみにしとけよ?」
燐のデスクから半分書類をさらって、雪男は頷くような瞬きをした。
*砂糖を一匙
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