占いは当たらないもの

 南正十字の大通りを少し外れた一角にあるマンションの『奥村』と表札が掲げられた一室をにリビングの灯りがともるのを外から帰宅してきた燐が気が付いて口元を緩ませた。
 早朝、着慣れた黒いコートに身を包んで任務に出て行った弟は無事に帰宅しているらしい。元々夕方までには戻ると言われていたから、雪男を見送った後、自分が仕事に出かける前の間に夕食の支度はしておいた。
 帰宅したらすぐに用意してやろう、きっとお腹をすかせている。と、緩やかに上昇するエレベーターの壁に背中を預けながらやるべき事を順序立てる顔は、弟と並び称されるまでに成長し、次期聖騎士候補として噂される祓魔師ではなく、例えば献身的に夫の健康を管理する妻のようだ。しかし、今この場にそれを言う者はいないし、塾の同窓生だったり師匠だったりピエロみたいな同窓生だったりする昔から燐を知る彼らは既に指摘することもしない。
 チーン、と軽いベルの音がしてエレベータが開き、燐の部屋がある10階の廊下が目の前に広がる。高校を卒業して祓魔師として本格的に仕事をすることになり、騎士団近くのこのマンションに部屋を借りた。二人にしては広いし新築だから家賃も高めだがその時点で雪男の稼ぎは十分だったし高校時代の節約生活のおかげで貯金もそれなりにあったので部屋に決めた。ベランダから修道院の屋根が見えるのが決めてだった。今、あの修道院には燐の師匠で今は同僚となった女性が我が物顔で住んでいる。
 1002号室の扉に鍵を差し込んで半周ねじるとロックが解除される。ブーツを脱ぎつつただいまあ、と一声書けるとすっかり耳になじんだおかえりが聞こえた。疲れた様子はなさそうで、この分じゃ怪我もないだろうと燐はホッと胸をなでおろした。
 コートを寝室のハンガーにかけて、高校の時から愛用しているエプロンに身を包む。紺色のそれを燐はずっと使っていて、雪男には買い換えたらと言われる事もある。でも、解れる裾を器用に直して使い続けるのはエプロンを買ったのが雪男だからだ。いつもありがとうと初めて貰ったプレゼント。雪男は忘れてしまったかもしれないが燐はずっと覚えている。
 さて、まずは夕食の用意だと燐はリビングの戸を開けたが、目の前の光景に考えていた計画はふっ飛ばさざるを得なくなった。暗い色味の家具で落ち着いた雰囲気に統一され整頓されていた室内には現在、ダンボールと色が眩しいピンクと青の太ももほどまである球体がちらばっていた。球体の二つのうちの一つにはこちらを向く弟の姿。何とか固まった思考を復活させて、燐は一呼吸置く。オーケー、大体把握した。燐は呆れ顔で訊ねた。

「"今回は"何を買ったんだ?」

 強調された単語に、燐の不満が詰まっているのがありありとわかり、声はすっかり曇り空だった。しかし吹き飛ばすような晴れ渡った明るさで雪男が答える。

「バランスボールだよ」
「なんで」
「テレビでやっててね、家で気軽に運動ができる優れものなんだよ」
「…そうか」

 燐の勘が正しければその販売文句は一日中デスクに向かい、書類やデータとにらめっこするような仕事についていたり、家事に追われていたりする人々に対するもので、自分たちの様に悪魔と戦うなんてかなりエキサイティングな仕事についている人には当てはまらないのではないか。というか手軽ってなんだ、今更手軽に運動する日課なんて欲しくねえよ。言葉を飲み込むのに燐は必死で、それ以上は何も言わなかった。
 雪男は嬉々として商品について語り始めた。跳ねたり揺れたりして、ストレッチにも使えるとかなんとか。正直どうでもいいが、燐は健気にもうんうんと相槌を打ってやる。

「ピンクと青がセットでね、兄さんがピンクで僕が青にしようかと思うんだけど、もし兄さんが青がいいっていうなら僕がピンクにするよ、どっちがいい?」
「どっちでも」
「言葉のキャッチボールしようよ」
「一球目から大暴投されたらしたくてもできねーよ」
「まあいいや、どっちがいい?」
「…ピンクでいーよ」
「うん、僕も兄さんにはピンクが似合うと思ったんだ」

 二十も越えて三十路が見え隠れする男に対してピンクが似合うはないよな、と思ったが、この手の話は何も返さないのが適当というのはこの数年で嫌になるほど学んだ。気を取り直して夕食を作ろう、それがいい。
 燐は吹っ飛んでいたプランを手繰り寄せ、しっかり頭に戻すとキッチンに足を向ける。

「ダンボールとか、ちゃんと片付けろよ」
「もちろん」

 そのもちろんは何回目だろうか。高校を卒業して始めた生活にようやくテレビが入ってきて、真っ先に雪男が飛びついたのは通販だった。最初はデジカメやトレーニングマシーンだったが、日焼け止めや高枝切りバサミなんてものが届くようになってから流石に燐も一度苦言を呈した。しかし雪男は必ず使うと言って駄々をこねた。それはもう今まで我慢していた分を吐き出すように。結局弟に弱い燐は大切にしろよ、とかそういうことしか言えなくなってしまう。
 冷蔵庫で寝かせていたハンバーグを取り出しつつ、その二つのバランスボールも一ヶ月後には雪男の通販部屋に眠ることになるのだなと溜め息をついた。

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