そしてまた溺れる


 不意に首に巻き付いた程よく筋肉がついた堅い腕がぎゅうと自分を抱きしめたから、燐は読みかけの漫画を閉じた。志摩に借りた好きなシリーズの新刊で一週間前からなんとなく発売日までをカウントなんかしていたが、背中に顔を埋める弟の前ではそんなものどうでもいい。
 燐の世界は常に雪男をきっかけにして動き、雪男を中心に置いて回っていた。それは雪男も然り。感じる重みは暖かくて心地よくて、かかる吐息がくすぐったい。頭の天辺からつま先まで砂糖菓子になったかのような気分だ。

「仕事終わった?」
「ううん」

 雪男が首を降ると背中でパサパサと音が鳴る。そっか、と燐はこうして仕事をサボる弟を咎めたりはしない。むしろ高校一年の彼が寝る間も惜しんで仕事に明け暮れている現実がおかしいのだ。本当なら今にもやめさせて、寄り道をさせてカラオケボックスで絶叫させてゲームセンターに入り浸らせたいが、弟がそうあらなければいけない最大の要因が自分だから何も言えない。雪男が仕事をしようとしまいと何も言わない。
 むしろ、弟を独占する仕事という存在は嫌いだ。でも、仕事と俺どっちが大事なんだ、なんていうありがちな質問はぶつけられない。きっと雪男は、兄さんに決まってるでしょ、と凛とした声できっぱりと断言するだろうが、燐の心のぶ厚い灰色の雲の隙間から太陽が顔を覗かせることは絶対にない。質問は、雪男の迷惑になるだけ。
 燐はグッと堪えて難しい論文やちかちか光ディスプレイや積み重ねられる研究にばかり向かってちっともこちらを向かない弟の背中を見つめた。
 だから雪男が大事な仕事を放って構ってくれるこの現状は十二分に燐の心を満たした。
 
「兄さん切れ」

 低く掠れた声が心臓を突き刺した。どくりどくりと熱いものが波打って漏れ出し、切っ先に塗られた毒が燐の指先を痺れさせて動けなくさせる。
 雪男が、明確な意思を持ってこんな残酷なことをしているのかどうか、時折燐は尋ねたくなる。どっぷりと全身砂糖菓子にして幸せを余すところ無く振りかけて強制的に身を任せるしかできなくさせて、自力で立つこともお裾分けすることもお返しすることも許さないで、気が済むまで優しさと幸福で蝕むことを。たった一言の、毒を塗った鈍いナイフで心臓を優しく突いて、何も出来なくさせることを。
 燐は雪男に依存しているのだと思う。他意であれ故意であれ自分の全身全霊を押し付けるのは悪いことだと悪魔は考える。悪魔と人間の境界とかいう中途半端に在って常に足元がぐらぐらと揺れているような自分は重たすぎる。
 燐は、悪魔は、人間は、いっとう大切な半身を押しつぶすのを地震よりも雷よりも火事よりも親父よりも神様よりも運命よりも恐れていた。にも拘らず、雪男は一番怖いことに優しさの毒を使って突き落とそうとするのだ。じわじわと燐の中に入り込んで、心臓の穴を自分自身を使って埋めて燐を雪男なしじゃ生きていけなくさせる。足元を崩して重たい身体を逞しい体で支えようとするのだ。
 最初からずっと、目は前を向いたままだ。手は漫画を載せているし、足は胡坐をかいている。背中は丸めて、頭は上げていた。毒に犯されて動かない燐を雪男はまるでガラス細工を扱うように大切に掻き抱く。兄さん、兄さん、と燐の耳に馴染んだ声で心を埋めていく。

「雪男は酷いな」
「なんで」
「酷いよ」

 燐はそれ以上なにも言わなかった。目を閉じてこのむせ返るほど甘い温もりに身を任せる。どく、どくん。微妙にずれた鼓動に揺れた。
 ぴたりと、唇にかさついて厚ぼったく柔らかい彼のそれが押し付けられる。ゆっくりと瞼をこじ開けたら、目の前の碧に青い自分が映り込んでいた。ビー玉ほどの輝きはないが、雪の降る早朝の空気のように透き通った素朴な美しさの眸の、最奥に在る心の臓を埋めるのは自分であればいい。そうすれば支えて支えられて押し潰れるときも一緒だ。怖くない。自分で押し潰して、自分で押し潰れるのだから。
 祈るように、口付けた。
 彼も毒に犯されればいいと。


 そしてまた、毒に溺れる。



 

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