花枷アルメリア 11
十蔵は廊下を歩いていた。数時間前、悩み迷っている才蔵の背中を押した彼は鍛錬場所に向かおうとしていた。二人が上手くいったかどうかは分からないが、きっと才蔵ならば大丈夫だろうという信頼があった。だからこそ十蔵は様子を窺いに行くのではなく、普段通りの生活を行おうとしていた。
右手に火縄銃を持った十蔵は、背後から聞こえてくる軽い足音に気付く。一体誰だろうと振り向こうとすると、勢い良く背中に何かがぶつかった。
「!!?」
背中…というよりは腰に、何かがいる。温かくて、柔らかい何かが十蔵の腰に腕を回して背後から彼を抱き締めていた。
誰がそんなことをと首だけを動かして自分の背中に視線を向ければ、視界の端に見慣れた―――けれど今まで見ることが出来なかった―――朱髪が映る。
驚きに目を見開いた十蔵の腰に回した腕にギュッと力を込めて、広く逞しい背中に額を押し付けた少女は小さく口を開く。
「心配、掛けて悪かった。もう、大丈夫、だから。……ありがとう」
その、言葉に。思わず十蔵が声を出しそうになった時、少女の細腕は彼の腰から離れていた。背後を振り向いた時には既に少女の姿はなく、代わりにそこには才蔵が立っていた。
「才蔵……」
「俺からも礼を言うぜ、筧さん。また何かあったらよろしくな」
先程のことは一体何だったのかと尋ねる間もなく、才蔵は朱髪の少女―――鎌之介の後を追って、消えた。
「―――………」
二人が去って行った方向をジッと見つめていた十蔵は、ふっと軽く息を吐く。口元に浮かんだ笑みを消そうともせず、彼は嬉しそうに目を細めた。
去り際に見えた、鎌之介の赤く染まった顔。才蔵の幸せそうな微笑。それだけで、二人が高い壁を乗り越えたのだと分かったから。だから。
「……礼を言うのは某の方だ」
十蔵は、笑った。
********
伊佐那海とアナ、そして清海は厨房に居た。伊佐那海が菓子を作るのを手伝うためだ。
「それで、何を作るの?」
「鎌之介と約束してた、甘くないお菓子だよ」
手が空いているなら手伝ってと伊佐那海に頼まれたアナは拙い手付きで粉を手に取る。彼女は料理が大の苦手なのだ。その手付きは傍で見ていた清海が心配になるほどだった。
伊佐那海は袖を捲ってやる気満々といった風に餡をまとめ上げる。甘くないお菓子とは、鎌之介が美味いと言った饅頭のことだ。
「鎌之介が帰ってきたら作ってあげるって約束したから!」
「うむ。お兄ちゃんも手伝うぞ!」
意気込む伊佐那海の隣で清海も饅頭作りを手伝い始める。似てないようでどこか似ている二人の姿にアナは思わず苦笑する。きっと出来上がる饅頭は伊佐那海の作ったものしか食べれないだろうが、少し頑張ってみようかと思った。
伊佐那海もアナも清海も手が粉で汚れてきた頃、厨房に誰かが飛び込んで来た。
「……え?」
「あら?」
「ん?」
台に向かっていた三人は背後から、誰かに順に抱きつかれた。それは本当に一瞬で、誰が抱きついてきたのか確認出来なかった。
だが、厨房の出入り口の方から「みんな…ありがとうっ」と可愛らしい声が聞こえてきて、皆はそちらに視線を遣る。すると鮮やかな朱髪が微かに見えた。
「今のって……」
「伊佐那海」
「! 才蔵……」
背中に残る温もりが誰のものであるか気付いた伊佐那海たちの前に才蔵が現れる。厨房の出入り口からヒョイと顔だけを覗かせた才蔵は呆然とする三人にニッと口の端を吊り上げた。
「伊佐那海、アナ、清海。いろいろありがとな。饅頭、後でアイツに食わせてやってくれ」
そう言い残し、才蔵は顔を引っ込めてどこかへと去って行ってしまった。
引き止めることさえ出来なかった三人は顔を見合わせ、声を出して笑った。
「早くお饅頭作って持って行ってあげようね!」
「全く……忍の私より俊敏ね」
「これはお茶も用意せねばならんな!」
饅頭はまだ作り始めたばかりだ。伊佐那海は背中に抱きつかれた時の感触を思い出し、泣きそうになるのを堪えて微笑む。鎌之介が、才蔵が。また以前のように笑ってくれる。
それが何よりも、嬉しかった。
********
六郎は幸村の部屋を掃除していた。相も変わらず幸村の部屋は汚い。こうして六郎が定期的に掃除をしてやらなければ、すぐにグチャグチャになってしまう。
出しっぱなしになっている書物を元の棚に戻し、六郎はふぅと溜息を吐く。やっと綺麗になった部屋を見回す。他に汚れている所がないことを確認してから六郎は幸村の自室から出る。
すると、横合いから突然誰かに服の袖を掴まれた。驚いた六郎は袖を掴む人物を見て、更に驚く。
「……鎌之、介……?」
六郎の袖を掴んでいたのは鎌之介だった。白く細い指先で、ギュッと袖を掴む鎌之介は俯いておりその表情は窺えない。
どうして鎌之介がここに。男である私に触れても大丈夫なのか。様々な疑問が頭に浮かぶが、それは鎌之介の次の行動によって一気に吹き飛んだ。
鎌之介が、横合いから六郎に抱きついたのだ。力強く、まるで自分はここにいると知らせるかのように。
「鎌之介―――」
「迷惑掛けてごめん。それから……ありがとう」
それだけを告げると、鎌之介は俯いたまま六郎から身体を離して走り去る。六郎は少女の背中に伸ばし掛けた手を空中で彷徨わせ、ギュッと握り締めた。今は鎌之介を引き止めるべきではないと、思ったから。
すると、六郎の傍にどこからともなく才蔵が姿を見せた。
「才蔵……」
「六郎さんにはほんとに世話んなった。あん時の粥、美味かった。ありがとな」
才蔵はふわりと微笑んで、六郎の前を通り過ぎる。きっと鎌之介の後を追うのだろう。六郎は何も言わず、彼を見送る。その秀麗な顔には、泣き笑いのような表情が浮かんでいた。
********
幸村は上田城の一室で煙管を口にしていた。数十分前に六郎が部屋を掃除しに行ってしまった為、彼は一人だった。
その静かな空間を、一人の少女がぶち破った。襖を乱雑に開け放ち、朱髪を揺らして少女は幸村の正面に仁王立ちする。
「か、鎌之、介?」
「おっさん」
アナから容態を聞いていた幸村は鎌之介を見て目を瞬く。
鎌之介は自分を見上げてくる幸村に詰め寄って、真っ正面から彼に抱きついた。
「鎌之介……?」
「―――助けてくれて、ありがとう」
耳元で囁かれた感謝の言葉に幸村は一瞬目を見開き、すぐにふっと細める。腕を伸ばして鎌之介の頭を撫で、幸村は華奢な身体を抱き締め返した。
「儂の方こそ、礼を言う。―――おかえり、鎌之介」
優しく告げられた言葉に鎌之介は小さく身体を震わせる。今にも泣き出しそうな気配を漂わせていたが、鎌之介は幸村からゆっくりと離れて微笑んだ。
「俺、まだ行かなきゃいけないところあるから、行ってくる」
そう言って鎌之介は部屋から飛び出した。忙しない鎌之介の背中を見送った幸村は、入れ替わるようにして部屋に入ってきた才蔵に尋ねる。
「あれは一体何だ?」
「御礼参りだとよ」
「御礼参りにしては随分と可愛らしいのぉ」
ニヤニヤと笑う幸村の姿に才蔵は眉を寄せる。
「儂に抱き付くことをお主がよく許可したな」
「今回は仕方ねーだろ」
オッサンには世話になったしな。才蔵は呟くように言い残して部屋を出て行った。
「全く……本当に可愛らしい部下だのぉ」
傍らに置いていた扇子で口元を隠し、幸村は笑う。やっと上田が、明るくなった。全てが、戻ってきたのだ。
********
上田城の庭先で空を眺めていた佐助はドタドタという騒がしい足音に振り返る。この足音は、まさか。
「緑、見つけたぁ!」
「!!?」
佐助が振り向くと同時に、正面から鎌之介が彼に抱き付いた。縁側から庭先にいる佐助に飛びかかるようにして抱き付いたため、佐助は勢いを殺しきれずにその場に倒れる。まるで鎌之介に押し倒されているかのような格好に、佐助は顔を真っ赤にした。
「か、鎌之介……!?」
「緑、助けてくれてありがとう。心配してくれてありがとう。手紙も、花も、髪留めも、ありがとう。嬉しかった」
「………!」
鎌之介の言葉に、佐助は瞳を潤ませる。自分の気持ちは確かに少女に届いたのだと、分かったから。佐助は泣き出しそうになるのを堪えて静かに笑った。
佐助から身体を離して、鎌之介は彼の瞳をジッと見つめる。
「あの髪留め、前に俺が欲しいって言ったやつだった。覚えててくれたんだな。本当にありがとう、緑」
「え、あ……っ!」
確かにあの髪留めは以前鎌之介と街に行った時に、鎌之介が欲しいと言っていたものだった。いつか機会があれば鎌之介にと思い、こっそり購入していたのだ。
そのことに鎌之介が気付いていたとは。佐助は更に顔を赤くする。すると鎌之介はふわりと微笑し、佐助の頬に唇を落とした。
ちゅっ、と小さな音がする。一瞬何が起こったのか理解出来なかった佐助は、身体の上から鎌之介が退いてようやく事態を把握する。佐助の顔はこれ以上ないというほどに真っ赤になった。
「かっ、鎌之介、なっ、」
「おい、そこまでするなんてきいてねーぞ!」
地面に座り込んで赤面している佐助の傍に才蔵が現れる。才蔵は鎌之介に詰め寄るが、鎌之介は彼を無視して雨春にも礼を言っていた。
「にょろもありがとな!」
「鎌之介っ!」
「何だよ。別にいいだろ、あれぐらい」
「良くねぇ!」
文句をつけてくる才蔵に鎌之介は呆れたように溜息を吐く。両手に抱えていた雨春を手放し、才蔵に向き直った鎌之介はふっと笑った。
「才蔵も、ありがとう。才蔵、―――好き」
「え―――……」
驚いたように目を見開く才蔵の唇に、鎌之介は自分のものを重ねる。触れるだけの、簡単なもの。けれどそれは、今の鎌之介にとってはとても大きな勇気のいる行為であったはずだ。それなのに、鎌之介は笑っていた。幸せそうに、笑っていた。それだけで、才蔵は救われた。
「みんな〜、お饅頭できたから食べよ〜!」
「お茶もあるぞ!」
「こら才蔵、鎌之介! こんな人前で何とはしたない!」
「あら、別に良いじゃない」
「鎌之介! 儂には? 儂にはないのか?」
「若っ!」
「あ、我、鎌之介に……っ!」
上田城が以前のように騒がしくなる。誰一人欠けることなく、全員がそこに居た。
ぞろぞろと集まってきた仲間達を微笑しながら見つめていた才蔵は、左手に感じた温もりに視線を移す。才蔵の隣に佇む鎌之介が、彼の左手を握っていた。
「―――……」
ギュッとその手を握り返し、才蔵は鎌之介と顔を見合わせて笑った。
もう離さないと、今度こそ護り通すと誓うかのように触れ合う手は。何者も阻むことが出来ないほどに深く、強く、繋がれていた。
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ここまでお付き合いして下さった方々に愛と感謝を。有難うございました!
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