花枷アルメリア 10




迫る腕、身体を這う武骨な指、突き立てられる白刃、厭な笑い声………。
思い出したくもない記憶が脳内に渦巻き、身体を犯されているかのような錯覚に捕らわれる。もう、いないはずなのに。才蔵が、あの忌まわしい出来事を全て消してくれたはずなのに。触れられた感触が、痛みが、苦しみが。いつまで経っても消えてくれない。

誰もいない自室。その隅で膝を抱えてそこに顔をうずめる。震える身体を強く抱き締め、吐き気を呑み込む。思い出したくないのに。忘れたいのに。嗤い声が、耳にこびりついて離れない。

ポロリと、一筋の涙が零れる。それを皮切りに、鎌之介の瞳から涙がポロポロと流れ落ちた。

才蔵の手を、払ってしまった。大怪我をして、それでも助けに来てくれたのに。優しく抱き締めてくれたのに。―――そんな才蔵を、怖いと思った。

深い眠りから目覚めた時、驚いたように瞳を丸くする佐助が間近にいた。「……鎌、之介……!」嬉しそうに名前を呼んで手を伸ばしてくる佐助を見た瞬間、堪えようのない恐怖と嫌悪が身体中を這いずり回った。そして、気付いた時には佐助の手を打ち払っていた。

大分落ち着いた後、アナからどうやって救出されたのかは聞いていた。才蔵と佐助が必死に助けてくれようとしていたことも。本当はあの時、二人には感謝しなければならなかったのに。どうして、拒絶してしまったのだろう。怖いと思ってしまったのだろう。嫌だと思ってしまったのだろう。

佐助と才蔵を拒絶した自分の手を握り締める。本当はお礼を言いたいのに。助けてくれてありがとうと、抱き締めたいのに。彼らに近付こうとすると恐怖で足が竦んでしまう。想いと行動が相反している。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった。

頬を伝う涙を拭おうともせず鎌之介は腕に力を込める。すると、足先に温かいものが触れた。何かと思い顔を上げると、足元に白い動物がにょろんと存在していた。


「―――にょ、ろ……?」


掠れた声で小さく呼べば、にょろこと雨春は微かに濡れた鼻先で鎌之介の足をつついた。
腕を解き、足を崩す。ぺたんと畳の上に座る鎌之介の膝に、雨春はピョコンと飛び乗った。そこで初めて、鎌之介は雨春の背中に括り付けられているものに気が付いた。


「これ………」


雨春の背中には、綺麗な髪留めで二つ折りの和紙と一輪の花が括り付けられていた。
指先で布製の髪留めを解き、和紙と花を手に取る。花は綺麗な桃色で、実に鮮やかだった。


「綺麗………」


花を愛でる趣味はない。今まで花に興味を持ったこともなかった。だが、この花は本当に綺麗で、美しかった。
花を傍にそっと置いて、今度は薄緑の和紙を手に取る。指先で優しく開けば、少し歪んだ筆跡で文字が書かれていた。

その文字を見た瞬間、鎌之介の瞳から再び涙が零れ落ちる。零れた涙が和紙に落ち、文字の端が微かに歪む。


『怖がらせて、ごめん』


少し歪んだこの筆跡は、佐助のものだ。六郎のように達筆ではないが、どこか暖かみのある優しい文字。よく動物の名前を枝で地面に書いてくれた、佐助の文字だった。


「う、っ……」


こんなにも優しい言葉を書いてくれる手を、自分は払いのけたのだ。その事実に胸が痛み、鎌之介の身体を震わせる。

髪留めと和紙を胸に抱き、鎌之介は、また泣いた。


********


上田城の広大な庭にある石の上に、才蔵は座っていた。
頭上には茫洋とした青空が広がり、心が洗われるように澄んでいる。しかし才蔵の心は一向に晴れない。

鎌之介に払われた手を、じっと見つめる。拒絶された時、頭が真っ白になった。そして、自分の認識の甘さを突きつけられた。

自分は鎌之介を救えてなどいなかったのだ。ただ自分のしたいようにして、鎌之介の気持ちを考えてやることが出来なかった。結局のところ、自己満足に過ぎなかったのだ。


「……くそっ、」


ギュッと手のひらを握り締め、額に強く押し付ける。この手は何も救えなかった。何一つとして、救えなかったのだ。

一人佇む才蔵の隣に、人影が伸びる。それに気付いて後ろを振り向けば、自分を見つめる強い瞳と視線が合った。


「……筧、さん」


小さく名を呼べば、十蔵はゆっくりと才蔵の隣へと歩み寄って来た。石に座る才蔵から視線を外した十蔵は、透き通る青空を見て目を細めた。


「悩んでいるのだな」
「……………」


十蔵は一言そう告げるだけで、それ以上何も言わなかった。それが十蔵の気遣いであると分かっていた才蔵は、額に当てていた手で胸元を握り締める。


「筧さん……。俺は、どうしたら良い? あいつのために何をしてやれる?」


伸ばした手は届かない。その姿を見ることさえ叶わない。鎌之介を救う術が、分からない。

自分の不甲斐なさに吐き気がする。鎌之介のためにしてやれることが、分からない。鎌之介の涙を拭うことさえ、鎌之介の身体を抱き締めることさえ、出来ないのに。

血を吐くかのような才蔵の心の叫びに十蔵は一度目を閉じ、そっと開く。


「お主は一体何を迷っているのだ?」
「……迷、う?」
「ただひたすらに、鎌之介を救いたいと叫んでいたお主はどこに行ったのだ」


十蔵が才蔵を見下ろす。その瞳は、眩しいほどに真っ直ぐだった。


「あの時、お主は言ったはずだ。どんな鎌之介でも受け止める、と」
「それ、は―――」


確かに、そう言った。あの言葉は嘘などではない。


「ならば、逃げるな。鎌之介ときちんと向き合え! 一度拒絶されたから何だ! そんなに簡単に諦められるほど、お主の想いは小さいのか!?」


十蔵に告げられた言葉の重みに、才蔵はハッとする。

確かにそうだった。才蔵は鎌之介からの拒絶を恐れ、ただ逃げていただけなのだ。不用意に怖がらせたくないからと理由をつけて、現実から目を背けていたのだ。
上田城に帰ってきてからきちんと鎌之介と向き合ったことがあっただろうか。


「筧さん、助かった」


石から腰を上げた才蔵は十蔵に短く礼を言ってその場を去る。向かう先は一つしかない。
足早に走り去る才蔵の背中を見送った十蔵は、悲しそうに目を細めた。過酷なことを言っている自覚はある。それでも、言わなければならないと思った。そうしなければ、才蔵と鎌之介はすれ違ったままのはずだから。


********


鎌之介の部屋に来るのは久しぶりだった。アナに不用意に近寄るなと言われていたからだ。
部屋は静かだったが、中に微かな人の気配を感じる。才蔵は部屋に入ることはせず、襖に背を預けるようにして座り込む。そしてゆっくりと口を開いた。


「鎌之介、聞こえるか?」


そう呼び掛けると室内の気配が微かに動くのを感じた。才蔵は鎌之介に払われた手を見つめながら、襖越しに鎌之介に語りかける。


「俺は最低だ。お前を護ってやれなかった。―――約束、したのにな」


その言葉に部屋の隅にいた鎌之介はハッと顔を上げる。雨春はいつの間にか居なくなっていた。

違うと叫びたかった。才蔵は助けてくれた、護ってくれた。才蔵は最低なんかじゃない。そう、伝えたかった。だが男達に刻まれた恐怖心が身体を竦ませ、言いたいことは言葉にならない。


「鎌之介……。俺はどんなお前でも好きだ。いくら拒まれたとしても、俺はお前を愛し続ける」


襖越しに告げられた言葉に、目の奥が熱くなる。その言葉が嘘ではないことは分かっていた。才蔵の愛が本物であると、分かっていた。鎌之介もまた、才蔵を愛しているからだ。


「鎌之介……。俺に資格をくれ。ずっとお前の傍に居る、資格を」


自分は資格なんて与えられる立場ではない。むしろ自分が頼むべきなのだ。才蔵以外の男に好き勝手にされた穢れた自分をそれでも愛すと言ってくれた、愛しい人に。

それに才蔵に資格なんて必要ない。資格なんかなくても、鎌之介はそれを望んでいた。才蔵に傍に居て欲しい。才蔵の優しい腕に抱き締められたい。才蔵の声で、名前を呼ばれたい。

鎌之介は部屋の隅から立ち上がり、襖へと近付いていく。才蔵の影が映る襖に指先でそっと触れる。温もりを求めるかのように、そっと。

触れたい。才蔵に。払い退けてしまったあの温かい手に、触れたい。冷たい手をしたあの男達ではなく、温かい手をした才蔵に触れられたいと、思った。

鎌之介の手が襖に掛かり、長く閉ざされていた部屋が開かれる。
背中を預けていた襖が突然無くなり、才蔵は畳の上に背中から転がる。
襖が開けられたのだと才蔵が認識した時には、彼の傍には人の気配があった。


「……鎌之、介」


仰向けに転がる才蔵の顔を、畳に両手をついた鎌之介が覗き込んでいた。先程まで泣いていたのか、目が赤くなっている。その弱々しい姿に胸が痛んだ。

鎌之介の白く細い指が、才蔵の頬を撫でる。まるで存在を確かめるかのように動く指に、才蔵は目を細めた。鮮やかな朱髪が才蔵の眼前でさらりと揺れる。


「さい、ぞ……」
「ああ」
「才蔵……っ」


ポロポロと翡翠の瞳から零れ落ちる涙が才蔵の頬を濡らす。その涙は頬を伝い、まるで才蔵が泣いているかのようだった。

止め処なく溢れる涙を拭ってやりたかったが、才蔵は身体の横に腕を投げ出したまま動かさない。鎌之介を怖がらせてしまうのだけは嫌だったから。だから決して自分からは鎌之介に触れようとはしなかった。

その才蔵の優しさに気付いていた鎌之介は更に涙を零す。堪えることなく感情のままに流れ落ちる涙は息を呑むほど美しく、そして何より温かかった。


「……才、蔵……」


才蔵の頬に指先で触れたまま、鎌之介は空いている方の手を畳に転がる彼の腕に伸ばす。そして手と手を絡めた。
態勢のせいで逆さに見える鎌之介の顔にはもう恐怖は浮かんでいなかった。畳に転がったままの状態で才蔵はじっと鎌之介を見つめる。手と頬から伝わる鎌之介の温もりに、思わず泣きそうになった。


「さ、いぞ………怖かっ、た」
「……ああ」
「怖かった………っ」


それは多分、鎌之介が初めて見せた弱さだった。いつも恐怖心などないかのようにただひたすらに突き進む鎌之介が見せた、唯一の弱さ。だからこそ、感じた恐怖がどれほどのものであったのかが嫌でも伝わってくる。

才蔵は自分が護れなかった少女の叫びを、聞き続けた。


「才蔵じゃない手に触られるのが、嫌、だった……!」
「……鎌之介……」
「才蔵が、好きなのに……、それなのに、違う奴に……っ」


鎌之介の小さな叫びが才蔵の心臓に突き刺さる。自分の罪の重さを突きつけられているかのようだった。しかし才蔵は逃げなかった。真っ正面から鎌之介の叫びを、受け止めた。それがいま自分が鎌之介にしてやれる唯一のことだった。

頬から手を離した鎌之介が、畳に倒れる才蔵へと近付いていく。才蔵は、動かない。彼の頬から一筋の涙が伝い落ちた時、鎌之介の唇は才蔵のそれに触れていた。

才蔵が目を瞬いた時にはすでに鎌之介の唇は離れていた。だが、あれほど恐怖に捕らわれていた鎌之介からの行為に才蔵は胸の奥が熱くなるのを感じる。絡み合った手に微かに力を込めれば、鎌之介はしっかりと握り返してくれた。


「才蔵……。穢れた俺でも、好きでいてくれる……?」
「当たり前だろ。鎌之介は鎌之介だ。何があっても、お前は俺が好きな鎌之介なんだ」
「―――………」


真っ直ぐな瞳でそう告げられた鎌之介は、小さく唇を震わせる。また涙が溢れ、才蔵の頬を濡らしていく。
恐る恐る伸ばされた才蔵の指が、鎌之介の頬を伝う涙を優しく拭う。その手の温かさに、優しさに。鎌之介はゆっくりと微笑む。

久しぶりの、愛しい人の笑顔に。才蔵の頬に涙が伝う。それは鎌之介のものではない、彼自身が流した喜びの涙だった。


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