――コンコン

控え目なノックの音が、ランスの執務室に響く。
部下から次々と上がって来る報告書を迅速に読み、サインやら没案の改善点を書き込んでいたランスは、執務用の机から顔を上げた。また新しい書類が来たのかと思うと、溜息を吐きそうになる。

しかし、聞こえてきたのは、部下でもなければ、同僚や唯一の上司の声でもなかった。


『ランスさま・・・』


小さく紡がれる己の名前。
それは、つい昨日出逢ったばかりの妹――最後の肉親の声だ。
あえて"ランス様"と呼んだのは、客人や部下が来ていた場合を考慮したのだろう。そんな些細な気回しさえ、愛しく感じてしまう。
ランス目当てでランス隊を志願する女には、"自分を見て!"というアピールばかりで、細やかな気遣いをできる女など殆どいない。
ランスにとっては嘔吐感すら催すほどに不快なものだが、彼女達の中には、彼女とランスしかいないのだろう。全く、厚かましいにも程がある。

ランスは椅子から立ち上がり、ゆっくりと扉へ近寄る。何やら、レイスは出掛けよりも元気がないような気がしたのだ。


「開いてますよ、レイス」


そう言うが早いか、扉が開き、ランスの腰に軽い衝撃。見下ろした先では、案の定レイスがランスの腰に抱き着いていた。


「う・・・ッ・・・にぃにー・・・」

「!どうしたというんですか!?」


ランス以外の人間がいないと解ったからか、レイスの呼び名は"にぃに"に戻っている。
やはりこの子は、無意識であったとしても、賢く聡明だとランスは思った。勿論、身内の贔屓目などなしに。


「ふ、ひつよな、のは・・・片付けてき、ま・・・ぐす」

「あー・・・取り合えず、そこのソファに座って待ちなさい。今、気分を和らげるハーブティーを入れてさしあげますから」

「あ、りがと・・・ござい、ます」


ランスから受けとった白いハンカチで、レイスは顔を覆う。当たり前だが、そのハンカチで鼻を拭くような真似はしない。
拭っても拭っても、涙が零れ落ちてくる。

「ウゼェんだよ!べそべそ泣くな!!」そう父親に言われてから、レイスは極力人前で泣かなくなった。しかし、泣いている所を発見されたマツバと、実兄のランスは別だ。マツバにはあれ以来泣き顔を見せていないが、ランスにはこの短期間で二度目である。
マツバの時にあった羞恥という感情も、ランスの前では霧散してしまうような気がした。実兄だからなのか、そうではない別の何かか。レイスには難しくてよくわからなかったが、ランスにだけは"弱い自分"を認めて貰えているようで、酷く安心するのだ。

――カチャ

必死に零れる涙を拭っていると、いつの間にか戻ってきたランスがテーブルにティーセットを並べ、レイスの向かいのソファへと腰掛けた。


「に・・・にぃに・・・」

「はい?」


今にまさに紅茶をカップへ注ごうとしていたランスの、手が止まる。


「わ、がまま・・・言ってしまって、も・・・良いで、しょうか・・・?」


そんなレイスの問い掛けには、さすがのランスも苦笑する。


「レイスの初めての我が儘です、聞かない訳にはいかないでしょう」


苦笑するランスの笑顔が優しくて、レイスは更に涙が零れそうになったので、ランスのハンカチで顔を覆ってしまった。


「にぃにの隣に・・・座りたい、です」


余りにも可愛らしい我が儘に、ランスはすぐさま二つ返事を返す。しまりのないだろう今の表情は、さすがに見られたくない。
レイスはささっとランスの隣に腰掛けると、ランスの左腕にくっついて甘えた。


「仲良く・・・なりたい。みんなと、仲良く、なりたい、です・・・」


ハンカチの向こうから、ぐすんと鼻を啜る音が聞こえる。
"仲良くなりたい"――それは、常にただ上を目指し這い上がってきたランスにとって、ある意味無縁の言葉だ。しかし、ランスには、今や、アポロやアテナ、ラムダがいる。馴れ合うような関係ではないにしろ、同じ目的を持ち、同じものを志す四人には、信頼という確かな絆のようなものがある。

――カチャリ


「レイス、カモミールティーです。気持ちを落ち着かせてくれますよ」

「ありがと、ございま、す」


取り合えず、元気一杯で出て行ったレイスがこうなってしまった起因は確実にある筈だ。
ランスはまず、そこから聞こうと思った。レイスの様子を伺うと、カモミールティーの安定作用が効いたのか、もう泣いてはいない。


「ところで・・・此処を出てから、何処へ行っていたのです?」

「・・・真っ直ぐ、ホールに行きました」

「ホール・・・集会のあった?」

「はい・・・そしたら、下っ端の方達が大勢いらっしゃったので・・・その中の一人のおじさんとバトルして・・・」


そこで何かを思い出したのか、レイスはがさがさとピカチュウリュックを探る。出てきたのは、一枚の紙だ。


「バトルを仕掛けてきた方の似顔絵です。ジュペちゃん、絵が上手なので描いてくださいました」

「この男・・・」


ジュペッタの絵の中で悔しそうな顔をする男に、ランスは覚えがある。とは言っても、すっかり忘れてしまっていたのだが。
ランスの同期であり、現在はアポロの部隊の下っ端だ。ランスと同期でありながら、あまりにも使えないので、来月執行予定のそこそこ過酷な任務――オブラートに包まず言えば、反乱分子・雑魚切りの為の任務に、この男の名前も上がっていた。
人手の足りない現状、首を刈るのは辛いが、使えない者を野放しにして変に裏切られたり、取り返しのつかないミスをされるよりは余程マシだ。


「わたしが勝ったので、にぃにに、にぃにの悪口を言ってたと、言い付けることにしたのです」

「ほう・・・賭けを持ち出されたのですか」


団員同士のバトルで、金銭やポケモンを賭けることは禁止されている。しかし、そこにくくらなければ、ある程度は黙認しているのも事実。


「レイスは・・・何を賭けたのですか?」

「よくわからなかったのですが、"はじめて"をくれと言われました」


ランスの米神にピキリと青筋が浮かぶ。まだ幼いレイスには、その"初めて"が理解できなかったのだろう。しかし、勿論理解したランスの怒りは凄まじい。
それでも平静を装い、ランスはレイスに渡してあった長方形の箱を一時的に返すよう言った。


「あ、はい・・・ジュペちゃん」

「じゅ!」


ジュペッタからそれを受け取り、ランスは「ありがとうございます」と無意識で自然にその頭を撫でた。


「じゅじゅ!」


嬉しそうなジュペッタの声で我に返り、箱から話題を変える。


「ところで、ボールが一つ増えているようですが」


レイスの手持ちのボールは、大体がダークボールかモンスターボールだ。異彩を放つロケット団専用のボールを、先ほどから大切そうにレイスが持っていることに、ランスは今気付いたという素振りを見せた。


「あぁ・・・これは、わたしとバトルで負けたおじさんが見捨てて逃げようとしたので・・・保護しました。このままだと、あのおじさんにころされてしまいそうでしたので・・・」


レイスが差し出したボールを見ると、中では瀕死状態のコラッタが眠っている。
これはロケット団に入れば、誰もが支給されるポケモンの内の一体。ズバットが当たる者もいれば、アーボが当たる者もいる。
ランスの持つゴルバットも、初期のズバットが進化した子だ。


「・・・ろくに育てなかったようですね。私と同期とは思えない程、弱い」

「あの・・・にぃに、」

「どうしました?」

「そのコラッタ・・・わたしがもらってはいけない、ですか?」


ふと、考える。どうせ来月には命ごと刈られる男の手持ちだ。


「構いませんよ。アテナの研究所で回復できますので・・・そういえば、地図はどうされました?」

「あ!」


ランスの元へ帰ることだけを考えていたレイスは、燃やすようにと言われていた地図の存在をすっかり失念していた。


「ヘルちゃん」


ポンッ と、優雅な動作でレイスのピカチュウリュックからヘルガーが現れる。


「これ、燃やしてほしいの」

「がう」


すんなりと了承したヘルガーは、灰も残さぬよう見事に焼き尽くした。


「アテナの研究所への道は」

「あ、大丈夫です。地図は覚えたので」

「そうですか」


柔らかく微笑み、自分のものと同じ色のレイスの髪を撫でてやる。レイスはシルバーグレイの瞳を細め、嬉しそうに微笑んだ。
ランスの予想した通り、レイスの頭脳は良くできているようだ。いずれレイスは、ロケット団にとって有益な人物となるだろう。


「"不必要なモノ"の処分、ご苦労様です。あとは私が片付けますので、レイスはコラッタの回復を」

「はい、にぃに」


喜んで執務室を出ていくレイスの背を見送り、ランスは引き出しから小型のイヤホンを取り出した。手には、レイスに持たせていた長方形の箱。

――あとは"これ"が真実を教えてくれる。




無自覚な策士
(命令以上の働きをするのが、上り詰めるキーなのですよ、"元同期"さん)




2011.05.04
更に憐れな中年男



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