走り抜けた生鮮食品の市場は店仕舞いが始まっていた。それを横目に足を早めると、翻るスカートを気にしながら人混みの途絶えた通りへ向かい、お目当ての店へと飛び込んだ。

「すみません!まだやってますか!?」

お目当ての店――ガラクタ屋のおじいさんは息も絶え絶えに蹲るわたしに対して不愉快げに眉をひそめたが、ため息と共に咥えていた煙草を潰した。

「あんた、いつぞやのお嬢ちゃんか」
「覚えててくれましたか…その、明日にはここを発つので、どうしても今日中に来たかったんですけど…」

やってますか?と聞けば、視線だけで要件を言えと促された。ような気がした。ので、ポケットから音楽プレーヤーを取り出しておじいさんに渡した。

「これも処分方法がわからなくて…ああ、でも前のやつと違って壊れては……」

――店先に並ぶ商品をぐるりと見渡して、ふと、気が付いた。携帯がない。辛うじてアイスが買える程度の値段しか付かなかったし、もしかしたら買い取ったはいいものの店先には出していないのかもしれない。
そんなわたしの様子に気付いたのだろう。目の色を変えて音楽プレーヤーを眺めていたおじいさんは、顔も上げずにこう言った。

「あれはもう売れたぞ」
「え?」
「ついさっきか…有り金出すから売ってくれって言う変な男が来てな。そこの屋台でアイスが二つ買えるくらいの値段で売ったよ」
「…そ、う、ですか……」

アイスが一つ買える値段で売って、アイスが二つ買える値段で買われた、わたしの思い出――わたしの郷愁。わたしの、弱さ。

「こっちは壊れてもないしそれなりの値段が付けられるぞ。そうだな…アイス十個くらいか」

どうしても子供扱いをしてくるおじいさんの物言いに思わず笑いがこみ上げてくるが、その笑いの何と気のないことだろう。自分で手離しておきながら、血の気が失せて気が遠くなる。だって、この世界の誰が、わたし以上にあれの価値を知っているのだろう。わたしにそれを言う権利がないことは知っている。わたしはあれを手放したのだから。
それでも――それでも、この空虚はわたしの手に負えないほど、大きい。

「…お嬢ちゃん、どうした?」
「……あ…」

お気に入りのドラマの主題歌や、友達がおすすめだと言って貸してくれたCD、何となしに日常を彩ってくれていた音楽プレーヤー。実を言うと充電はまだ少しだけ残っていたのだ。それでもいつかは電池も切れて、携帯のように見るも無惨な思い出の残骸となるのだろう。
手に負えないほどの空虚も、恋しさも、切なさも、捨てることが許されるのなら。

「…何でもありません。それ、よろしくお願いします」

おじいさんはそうかとだけ言って、懐から取り出した金貨をわたしの手に握らせた。アイス十個が買えるだけのそれが、どうしてこんなに重苦しく感じられるのだろう。





「…お前、何してんだ?」

バニラ、チョコ、ストロベリー。ああ、抹茶はさすがにないのか。しいなさんの故郷とやらにはあるのかな。今度聞いてみよう。
店員のお姉さんに迷惑そうな顔をされているのも構わず閉店間際のアイス屋さんのショーケースの前に屈んで悩んでいたわたしに呆れたような声をかけてきたのは、何と言う偶然かユーリさんであった。買い物でもした帰りなのだろうか。小さな紙袋を小脇に抱え、わたしの隣に並んで屈み込む。目も覚めるようなイケメンの登場に先ほどまで迷惑そうな顔をしていた店員さんが頬を染めていたのは見なかったことにした。

「良ければユーリさんも食べませんか?臨時収入があったので、十個くらいなら余裕ですよ」
「それなら俺が八でお前が二だな」
「いやいやいやちょっと待ってくださいこの甘党」
「冗談だっての。ま、たまには奢られるのもいいかもな」

そう言って彼が指さしたバニラとチョコチップ、わたしの分としてストロベリーとキャラメルを頼み、近くのベンチに腰を下ろす。明らかにユーリさんのアイスの方が大きいのはやはり見なかったことにして、ぽつりぽつりと会話を交わしながら、わたしは考える。
果たして、一口くださいと言っていいものだろうか。これがチェスターさんかティトレイさんなら言えた。むしろあの人達は一口食うか?と笑顔でスプーンを差し出してくれるタイプだ。しかし、リオンさんやジューダスさんと並びバンエルティア号スイーツ男子の名を欲しいままにするユーリさん相手に、と言うか男の人相手に一口くださいなんて――うん、やめておこう。自ら地雷を踏みにいくものではない。
そう思いながら最後のひとかけらをスプーンで掬い名残惜しくも口へ運ぼうとしたが、途端に隣から伸びてきた手に、それは叶わなかった。澄ました顔でわたしの手を取り、大きく開けたその口でわたしのアイスを掠め取る。色の薄い唇からちらりと覗いた舌は目が奪われるほど赤く、
思わず固まったわたしとは対照的に伏せられた長い睫毛の向こう、真っ直ぐな瞳と目が合った。

「…ごちそうさん」
「……わ、わたしのアイ…むぐっ」
「ほら、あーん」

文句を言うために開いた口の中にスプーンを押し込まれ、バニラの甘さが舌の上でじんわりと溶けていく。何とも言えない顔でアイスを味わった口からスプーンを引き抜かれ、いつの間にか奪われていたわたしの分のカップとスプーンと一緒に、ユーリさんは近くのごみ箱へと放り投げた。軽い音を立てて見事にシュートが決まる。思わず拍手したくなった。しなかったけど。
冷たくなり始めた潮風が、二人の髪を揺らす。ユーリさんは何も言わないままで、わたしも何だか帰りましょうと言うことが出来なかった。帰りたくなかったかもしれない。もう少しだけ、ほんの少しだけ、いつかは塞がる胸の穴を寂しく思いたかった。

「やるよ」

どれだけそうしていたのかは定かではないが、気が付けば夜色の空の中、遠くの水平線だけが燃えるように輝いていた。ユーリさんはわたしに抱えていた紙袋を押し付けると、おもむろにベンチから立ち上がる。男の人にしては華奢なのだろうか。しなやかな背中から、何となく目が離せない。

「何ですか、これ」
「アイスの礼だよ」
「はあ…」

別にいいのに。そう呟きながらそっと紙袋を開いて覗き込む。辺りが暗過ぎてよく見えない。仕方なしに紙袋の中に手を入れてそれを取り出す――ユーリさんがこちらを振り返ったのだろう、まるで燃え尽きる前のようにまばゆい水平線が、わたしの手の中の思い出の残骸を照らした。

「他の誰かにとってはただのガラクタでも、お前にとっちゃ大切な思い出だろ」

その声はわたしを責めていた。けれど呆然と見上げたユーリさんはどこか諦めるように微笑んで、わたしの目の前で膝を折る。見下ろす彼の輪郭が、みるみるうちにまるでアイスみたいに溶けていく。
首の裏に彼の大きなてのひらが添えられ、優しくはない強さで引き寄せられる。濡れた頬を押し付けた肩が熱い。宵闇よりも濃い黒髪が溶けた視界を遮り、まるでわたしをその場に閉じ込める檻のようで、何とも言えず胸が逸る。ああ、もう、本当に。

「…そんな顔するくらいなら、最初から手放すんじゃねえよ」

彼はわたしを強くも弱くもする。


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