イアハートが来てからのアドリビトムは忙しかった。何せイアハートがニアタに頼まれルミナシアに持ち込んだのは、グラニデでは既に実用化されていると言うマナに代わる代替エネルギーの発生装置の設計図――なんてとんでもないものだったからだ。これでようやく星晶を巡る争いに終止符が打たれることだろう。そう確信したアドリビトムは文字通りに東奔西走し、今更ながら不思議に思えてくるほど揃いも揃った各国の重要人物達の奮闘によって、見事に装置の開発に対する世界各国の協力を取り付けることに成功した。
わたしは考える。ルミナシアから戦争がなくなり、本当の意味での平和が訪れるのはそう遠くない未来のことだろう。そんな未来を早く見たくて、今のわたしはそれを見届けることだけを考えていた。





「ナマエ、地図持ってる?」

そう言って部屋を訪ねて来たのは、もうすっかりその顔立ちも見慣れてしまったイアハートだった。わたし完全にオフの気分のまま寝転んで本を読んでいた態勢から起き上がり、乱れた髪を押さえながら首を傾げる。

「地図?」
「そう、ルミナシアの地図。船で移動してるからそんなに意味はないだろうけど、せめて依頼でよく行く場所くらいはどこにあるのか知っておこうと思って」

なるほどなるほど。わたしはそう頷いて、しかしふと地図を持っていないどころか、今までろくにこの世界の地図を目にしたことすらないことに気付いて眉を下げる。

「ごめん、持ってないや。カノンノなら持ってるんだろうけど、さすがに勝手に私物を漁ったりは出来ないし…」
「そっか。カノンノはラザリスと一緒に依頼に出てるんだっけ?」
「うん。帰りは遅くなるみたいだから、別の人に借りに行った方が早いかも」

いつもならわたしがこうしてベッドに寝転ぶと一目散に飛び付いてくるはずのどこまでもいたいけな彼女は、現在アンジュさんによって厳しく躾けられている真っ最中であったりする。例えラザリスが異世界そのものであったとしてもアンジュさんは変わらない。むしろバンエルティア号で暮らし始めたはいいがわたしにしか懐かないラザリスの首根っこを掴み、いつまでもナマエにべったりじゃダメよ!と言って依頼に放り出すのだ。全く素晴らしいお母さん…改め、リーダーである。

「急にごめんね。ありがとう」
「こちらこそ、お役に立てなくてごめんね」

イアハートが手を振って部屋を後にする。再びひとりきりになってしまったわたしは、ぼんやりと閉められた扉を眺めながら呟いた。

「地図、か…」

そう言えば持ってないな。開いたままだった本を閉じて重い腰を上げると、軽く背伸びをしてから立ち上がり、クローゼットを開けた。





「いらっしゃいませだキュー!」
「ナマエさんだキュ!」
「今日は何を買いに来たんだキュー?」

おもむろにやって来たショップでは、今日も今日とて可愛いモフモフ族三兄弟に迎えられた。どうやら道具屋のコーダさんは不在らしい。ついでに言うとまるで自室かのような頻度でここに出没するジェイさんはおらず、これまた珍しいこともあるものだと思いながら、膝を折ってポッポさんと目線を合わせた。

「すみません、地図ってありますか?」
「キュキュ、地図だキュ?」
「はい。ルミナシアの世界地図…みたいなのを探してるんですが」
「申し訳ないけど、普通の地図は在庫切れだキュ…。でもでも、代わりになりそうなものがちょうど倉庫の方にしまってあるから、ちょっとだけ待っててほしいキュ!」

そう言って、ポッポさんはショップの奥に引っ込んでしまった。その小さな背中を見送り、わたしはそっとため息をこぼす。在庫切れとは運がない。依頼で船を下りた際に迷わないよう持って行く人もいるだろうし、そうなれば必然的に破損しやすくなるのだろう。カノンノに借りてもいいのだけれど、でも、何だかそれじゃいけない気がして。
わたしが腰を上げるのと同時に、ショップへ誰かがやって来る。いらっしゃいませだキュー!と言う元気な声に振り返れば、お客さんはアスベルさんだった。

「お疲れさまです、アスベルさん」

アスベルさんは軽く目を瞬かせてから、その頬を柔らかく緩めてこちらへやって来る。

「ナマエもお疲れさま。これから依頼でコンフェイト大森林に行くんだけど、ちょうどパナシーアボトルを切らしてたことを忘れててさ。慌てて買いに来たんだけど…コーダはいないのか?」
「そうみたいですね。食堂でしょうか?」

世間話を続けていると、不意に可愛らしい足音が聞こえてくる。二人揃ってそちらを振り返れば、まるで掲げるようにしてそれを持ったポッポさんが、笑顔で駆け寄って来た。

「お待たせしましたキュ!」
「それって…」

呆然とそう呟いたわたしへ、ポッポさんはやはり笑顔でそれ――地球儀によく似たものを差し出した。

「これはルミナシアの地図を球体にした模型、ルミナシア儀だキュ!ナマエさんも知ってるキュ?」
「あ、はい…。この世界のものは初めて見たけど、地球でも同じように地球儀って言って、こんな風に世界地図が見れるものがあって…」

受け取ったそれをくるりと回す。

「……いつだったかは覚えてないけど、お父さんとお母さんにねだって買ってもらった…」

カラカラと小さな音を立てて広がる世界地図に、やはりと言うか何と言うか、日本はない。アメリカもないし、ヨーロッパも、アフリカもない。代わりにガルバンゾやライマ、世界樹なんて名前を見付けて、途端に寂しさを感じてしまった。この船の外には、わたしの知らない世界がこんなにも広がっている。
――あの日、仕方ないと笑って小さな地球儀を買い与えてくれた、両親のいない世界。

「…ナマエは地図が欲しかったのか?」

込み上げてきた郷愁を何とか飲み下し、アスベルさんの問いに苦く笑って頷いた。

「はい。これからここで暮らしていくって言うのに、わたし、地図も持ってなかったんですよ」

カラカラ、カラカラ。回り続ける世界地図は当然のように見覚えもないが、わたしはどうしてもこれが欲しくなってしまった。

「ちなみにこれっていくらですか?」
「きっかり一万ガルドだキュ!」
「ううっ、手持ちじゃ足りない…!」

どうせ買うのは地図一枚だからと、わたしがお財布に入れてきたお金はそう多くはなかった。完全に地図を舐め切っていたわけである。そもそもの話、地図を買いに来て地球儀…じゃなくてルミナシア儀を買うことになるとは、さすがに予想していなかったのだ。わたしは小さくため息をこぼしてから、そっとルミナシア儀をカウンターへ置いた。

「すみません、今すぐ部屋に戻って…」
「――ポッポ、お金は俺が払うよ」

えっ。わたしが慌ててアスベルさんを振り返るよりも早く、アスベルさんは腰を折り、ポッポさんにお金を渡していた。あっという間の売買成立である。

「キュキュキュ!さすがアスベルさん、かっこいいキュ!男前だキュー!」
「あはは…ありがとう」
「ラッピングもするキュ?もちろんラッピングはサービスだキュ!」
「せっかくだからお願いしようかな」
「了解だキュー!」

呆然とするわたしに構わず、何故だか顔を輝かせたポッポさんは再び、ルミナシア儀を手に倉庫へと走って行った。キュキュキュキュ〜とご機嫌そうな鼻歌が倉庫から漏れ聞こえてきて、アスベルさんが思わずと言った様子で笑いをこぼしたのを聞いて、途端にわたしは飛び上がった。

「ちょっ、あの、すみません!すぐにお金持って来ますので…!」
「いや、いいんだ。その、迷惑じゃなければ…そのまま受け取ってほしい」
「でも…」

何の理由もなく貰うなんて出来ない。そう思って言い淀むわたしの胸の内を察したのだろう、アスベルさんは少しだけ考えるように目を伏せてから、不意にその目を泳がせた。

「ええと、そうだな…。それじゃ、引越し祝いってことで」
「…引越し祝い?」
「ナマエがチキュウからルミナシアへ引越して来たお祝い。…まだ気持ちの整理はつかないだろうし、ディセンダーとして忙しい日々を過ごすことになるだろうけど――それでも俺は、この世界でナマエと一緒に生きていけることを嬉しく思うよ。…ごめんな」

泳いでいた青色の澄んだ瞳が、わたしの目を見て寂しげに綻んだ。わたしは思わず言葉に詰まる。息すら止まりそうだと思った。この世界でアスベルさんと、みんなと、一緒に生きていける喜びと。この世界で両親と、友人と、別れて生きていかなければならない苦しさと。相反する二つの感情を持て余すわたしの心に、アスベルさんの言葉が深く突き刺さった。
――可愛らしい足音がこちらへ近付いて来る。きれいなラッピングが施されたルミナシア儀を掲げて駆け寄って来たポッポさんは、笑顔でそれを差し出した。

「お待たせしましたキュ!さ、ナマエさん、どうぞだキュ!」
「あ、…えっと……」

わたしはルミナシア儀とアスベルさんを交互に窺った。本当に貰ってもいいのだろうか。アスベルさんはそんなわたしへ、今度こそ優しく笑ってくれた。

「これからもよろしく、ナマエ」


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