珍しくホールは無人だった。受付にはアンジュさんもおらず、依頼のために出入りをする人もいない。わたしと、開け放された扉の向こうの甲板でこちらに背を向けて佇む、カノンノだけだった。
彼女もまたニアタに呼ばれているはずだ。先に行ってるねと手を振った彼女とこのホールで別れたのはつい先ほどだが、それにしたってどうしたのだろう。あんなところでぼんやりとしているなんてカノンノらしくない。そもそも別れる前はいつもと同じ紅葉色のワンピースを着ていたはずなのに、いつの間にあんなセーラー服によく似た白いワンピースに着替えたのだろうか。わたしはちらりと操舵室のある階上を窺い、それからホールを横切って甲板へ進む。ぶわりと、途端に強く吹き付けてきた風に広がる髪を押さえた。

「カノンノ、こんなところで何してるの?操舵室に行かなきゃ、ニアタが…」

わたしの言葉が不自然に途切れたのは、カノンノが――彼女が、くるりと振り返ったからだ。
顔立ちも、髪の色も、瞳の色も、浮かべた驚きの表情ですらカノンノと同じである。そのはずなのに彼女を目にした途端、わたしの胸に一瞬だけよぎった形にもならない違和感は、果たして何だったのだろう。わたしは首を傾げた。

「…えっと、ごめんね。何でもない。ニアタが待ってるし、操舵室に行こうか」

誤魔化すように笑って差し出した手を見て、戸惑うようにそのまつげを震わせた彼女は、唇を開く。

「あなたは…」
「――ナマエ!」
「えっ?」

目の前の彼女の声をかき消すように背後から聞こえてきたのは、わたしがどうやっても間違えようのないカノンノの声だった。慌てて振り返れば見慣れた紅葉色のワンピースを着た彼女が――カノンノが、ニアタと共に笑顔でこちらへ駆け寄って来る。わたしはこれまでにないほど驚き目を白黒させながら、忙しなく二人のカノンノを見比べた。どちらもカノンノである。ひたすらにカノンノであった。

「遅いと思ったら先に甲板へ来てたんだね。…って、どうしたの?何かあった?」
「あれ、えっ、カノンノ?カノンノが二人?何で?ど、どうして?」
「へ?」

カノンノが――紅葉色のワンピースを着た彼女が、首を傾げながらわたしの向こうで苦笑を浮かべているカノンノ――セーラー服に似た白いワンピースを着た方を見付け、大きく目を見開く。ドッペルゲンガー。わたしの脳裏に音もなくそんな言葉がよぎった。

「ようこそ、カノンノ。ここがルミナシアだよ」

すう、と音もなく宙を滑りわたしの前へ躍り出たニアタは、その無機質な声をどことなく柔らかくして苦笑を浮かべるカノンノにそう言った。彼女は一転して笑顔を浮かべる。その様は、やはり花開くようだった。

「うん。向こうのニアタに聞いていた通り、素敵な世界だね」

そう言ってぐるりと辺りを見渡すと、ニアタの向こうで固まるわたし達に目を留めた。

「初めまして!私、カノンノ・イアハート。グラニデって世界から来ました」

カノンノ――カノンノ・イアハート。わたしの隣で固まっている彼女は、カノンノ・グラスバレー。当たり前だが、やはりと言うか何と言うか、全くの別人だったらしい。それにしてもよく似ている。まじまじと彼女を眺めるわたし達の視線に気付いたイアハートさんは、気まずげに頬をかいた。

「…えっと、私がこの世界に来ること、前もって聞いていなかった…とか?」
「ナマエ、それにこちらのカノンノを驚かせようと思ってな」

からかうようなニアタの言葉に笑いをこぼし、彼女は不意にこちらを、正確には自分によく似たカノンノを見る。

「向こうのニアタから聞いていたけど、姿もそっくりだし、名前も同じかあ」

今度は自分の方がまじまじと眺められている隣のカノンノを窺うが、彼女は自分によく似た人物が目の前にいることに驚き過ぎているようで、未だ石のように固まっている。もちろん固まりたいのはわたしも同じなのだが、恐る恐る、わたしはニアタに問いかけた。

「ごめん…あの、ニアタ。全然話が見えないんだけど…」
「ああ、そうだったな。カノンノ・イアハート…彼女は我々の本体があるグラニデと言う世界の住人だ。今までは転送に必要なエネルギーが足りなかったが、ようやく、このルミナシアへ呼び寄せることが出来た」
「あ……」

はっとして、わたしはニアタを見た。そうか、なるほど――あの時の。西日が差しこむ気だるい展望室で交わした言葉を思い出す。ニアタは何も言わずにこちらを見ていたが、わたしは目を逸らしたまま頷き、そっとため息をこぼす。これでよかったのだ。
イアハートさんはわたしのため息を勘違いしたのか、どこか気まずそうにしながらわたしと向き合った。

「さっきはごめんなさい。さすがにいきなり異世界から来ました、なんて言えなくて。ええと、あなたはナマエって言うの?」
「あ、うん…じゃなくて、はい。ナマエ・ミョウジです。こちらこそ、似ているからって勘違いしてすみませんでした」

もちろん別人だとはわかっているのだが、つい癖で敬語が抜けてしまう。何となく気恥ずかしい。そうして笑顔で差し出された彼女の白い手を握ると、ニアタはやはり音もなく宙を漂いわたしの隣に並んだ。

「ナマエはそなたと同じく別の世界の住人だが、色々な事情があってな…今ではこのルミナシアを救ったディセンダーだ。二人とも、仲良くしてやってくれ」
「異世界から来たディセンダー…!そっか、そうなんだ…だから見覚えがなかったんだね、うん。よろしくね、ナマエ!」

未だ握り合ったままの手をぶんぶんと上下に振られ、その輝くような笑顔に苦く笑って返す。ほんの少しだけ振り回される肩が痛かった。

「紛らわしいから、私、ここではイアハートって名乗るよ。ナマエも良ければ、カノンノと同じように接してくれると嬉しいな」
「あ、えっと、いいのかな。…それじゃ…こちらこそよろしくね、イアハート」
「うん!」

そうしてわたし達が和やかに自己紹介を終えた頃、ようやくカノンノが驚きから解放されたらしい。おずおずと、わたしの服の裾を掴みながらも意を決したように、イアハートに話しかけた。

「えっ…えっと…イアハート…は、ニアタが前に話してくれた、別の世界にもあるって言うアドリビトムの……」
「うん、そうだよ!」

イアハートは笑って頷く。カノンノもまた、戸惑いながらも微笑み返した。会えて嬉しいな、とこぼす彼女に、わたし達も笑ってそうだねと頷く。
カノンノによく似ているからだろうか。それとも彼女の、初夏の日差しのように爽やかで眩しい笑顔のおかげだろうか。ニアタの計らいによってそれからしばらくの間このバンエルティア号で過ごすことになったイアハートは、まるで以前から一緒に過ごしていたかのような早さで、わたし達に溶け込んでいったのだった。


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