誰もが寝静まった午前一時過ぎのバンエルティア号。慣れないダンスの練習で疲れているはずなのに目を覚ましてしまったわたしは、カノンノを起こさないよう気を付けながらベッドを抜け出してトイレに向かった。寝ぼけながらも当たり前のようにナタリアさんから貰った靴を履いていることに我ながら何とも言えない感情がこみ上げてくる。あまり靴音を立てないように気を付けながら暗い廊下を進んでいくと、ふと、洗面所から伸びる影を見つけた。その時のわたしはすっかり目も覚めてしまっていたのだ。ふと湧き上がったほんの少しの好奇心から、身を隠すようにしながらそっと洗面所を覗き込む。子供のようなときめきに湧いていた心臓は、しかし――そこに佇む彼の姿を見つけて大きく跳ね上がった。
彼は、呆然と己の頬に手を当てて鏡を覗き込んでいた。どこか見覚えのある燕尾服を纏ったその背はすらりと高く、鍛え抜かれた隙のない体付きは、手練れの剣士のそれに思えた。この船にはたくさんの剣士が乗っている。しかし、わたしはそこにいる彼が、どうしてもその中の誰かに思えないのだ。

「……誰?」

彼は弾かれたように振り返る。栗色の髪が揺れ、大きく見開かれた緑色の瞳と、噛み締められ色を失った唇が痛々しい。どこか幼さを残した柔和な顔立ちをしたその人は、やはり、わたしの知る誰でもなかった。

「ぼ、僕は…」
「どうして、いつの間に船に…!?」
「違うんです!ナマエ様、僕は…っ」

青褪めた顔で身を乗り出した彼に驚き後退りながら悲鳴を上げようとして、わたしはそれを諦めざるを得なかった。一瞬で距離を詰められ、素早く伸びたその腕がわたしの口を覆って壁に押し付ける。強かに打った背が痛み思わずくぐもった呻き声を漏らせば、その人は大袈裟に身を震わせ我に返ったようにその手を退かした。
再び辺りは真夜中の静寂に包まれる。先ほどまでわたしの口を塞いでいたその手を見下ろす彼は、何故だかとても戸惑ったような顔をしている。そんな顔をしたいのは全くもってこちらの方なのだが、ふと至近距離で目が合ったその人にまるで縋るような――有り体に言うのであれば捨てられた子犬のような視線で訴えられてしまえば、何と言えばいいのか非常に良心とかその他諸々に突き刺さるようだった。
彼は、わたしと目を合わせたままごくりと喉を鳴らす。何かを決意したようだとわたしは思った。それでも躊躇うように言葉を濁して、ようやくはっきりと耳に届いた言葉は、ひどく震えていた。

「……し、信じていただけないとは思います…。ですが…ナマエ様、どうか聞いてください……」
「…わたしの名前、どうして……」

恐る恐るそう問えば――彼は燕尾服の裾を揺らして姿勢を正し、俯いたままこう言った。

「僕はロックスです。ロックスプリングス…あの姿になる前の、人間だった頃の…ロックスです」





このバンエルティア号で不可思議なことが起きれば、それはほぼ百パーセントの確立でこの人のせいである。と、わたしは思っている。

「ふむふむ。薬を仕込んだ飴を摂取してから、約一時間ほどで変化を起こすわけね〜。出来ればもう少し早く変化を起こしてほしかったけど、まあ、実験は成功ってことで!」
「ハロルドさん!」
「ぐふふっ」

研究室で眠り込んでいたハロルドさんを叩き起こして洗面所に連れて来てみれば、所在なさげに佇む彼――ロックスさんに詰め寄り目を輝かせながら、興味深げに観察している。対するロックスさんはその視線から逃れるようじりじりと後退しながら、引きつる顔で壁に背を寄せた。

「そ、それで…ハロルド様。その、元に戻す薬は…」
「ああ、安心してちょうだい。あと二、三時間…そうね、少なくとも夜明けまでには元の姿に戻るはずよ」
「そ、そうですか…」
「ま、それまでは人間の姿を謳歌することね。それじゃ、おっやすみ〜」

まるで嵐のようなその人は笑顔でそれだけ言うと、さっさと身を翻して洗面所を後にした。調子の外れた鼻歌が徐々に遠ざかって行くのをぽかんと口を開けたまま見送る。そうして短い沈黙のあと、わたしはこの世を憂いながら深くため息を吐いてようやく顔を上げた。ロックスさんは心ここに在らずと言った様子で再び自分の手を見下ろしている。わたしは思わず声をかけるのを一瞬だけ躊躇ってしまった。それに気付いた彼が顔を上げ、全く面影のないその顔で――しかし見慣れた優しい微笑みで、そっと首を傾げた。栗色の髪が揺れる。

「ええと、ロックスさん…は、これからどうしますか?」
「僕は…そうですね。原因も分かりましたし、すぐ元の姿に戻れると言うのであれば、食堂で仕事の続きをしようと思います。どうぞ僕のことはお気になさらず、ナマエ様もお休みになられてください」
「でも…」

果たして今、彼をひとりきりにしていいのだろうか。躊躇い食い下がろうとしたわたしに、ふと、ロックスさんが今気付いたと言わんばかりに目を瞬かせた。

「そう言えば、ナマエ様はこんな夜中にどうなさったのですか?」
「わたしですか?わたしは……目が覚めちゃったんで食堂にお水でも貰いに行こうとしてたところです」

もちろん嘘である。しかしながらロックスさんはわたしの明らかに怪しい棒読みの説明にも疑うことなく頷き、そっと背筋を正して優雅に一礼してみせた。その容姿や服装もあいまってか、あまりにも様になっているその仕草に思わず見惚れてしまう。軽く腰を折ったことで目線を合わせたロックスさんは、わたしの顔を覗き込むようにしながら微笑んだ。

「ご迷惑をおかけしたお詫びと言うわけではありませんが…ナマエ様さえ宜しければ、食堂で安眠効果のあるハーブティーをお淹れします」
「迷惑なんて、そんな…。ええと、それじゃ、ごちそうになります」

図らずしも間近で直視してしまったその微笑みは――何故だろうか。わたしの知っているロックスさんのものであって、わたしの知らない男の人のものであるような気がした。





爽やかで優しいハーブの香りが食堂を包む。わたしは知らず知らずの内にほっとため息をこぼし、手際良くお茶の準備をするロックスさんの見慣れない背を眺めていた。決してストーカー染みたそれではない。
少しして、案内されるまま席についていたわたしの元へロックスさんがティーカップを運んで来る。慌てて居住まいを正したわたしに思わずと言った様子でロックスさんは笑みをこぼしながら、そっとわたしの前にティーカップを置いた。

「カモミールのミルクティーです。心身をリラックスさせる効果があるため、寝る前に飲むとよく眠ることが出来るんですよ」
「ありがとうございます。…あ、おいしい」
「それはよかった」

口に含んだカモミールとミルクの優しい味が、じんわりと体を温めていく。やはりロックスさんが淹れてくれるお茶が一番おいしい。ダンスの練習や社交界についての勉強など、慣れないこと続きで張り詰めていた体も――心も、たった一杯のお茶に癒されていく。

「最近、舞踏会への準備ばっかりで気が休まらなくて…もしかしたら知らない間に疲れが溜まってたんでしょうか」

ナタリアさんはスパルタですし。わたしはそう笑いをこぼしながら、トレーを手にすぐ側に佇んでいるロックスさんを見上げる。まるで人目を避けるかのように明かりをひとつだけ点けただけの食堂は薄暗く、唯一の光源を背にするロックスさんの表情は窺えない。

「すっかりその靴も履き慣れたようですね。…前々から思っていましたが、ナマエ様によくお似合いです」

だから、急にそんなことを言われてティーカップを取り落としそうになるほど驚いた。慌てて落としそうになったカップを両手で押さえ、改めてロックスさんを窺うが、やはり彼がその顔にどんな表情を浮かべているかはわからない。それでもその唇が柔らかく弧を描いていることだけは、かろうじて目にすることが出来た。

「そ、そうですか?でも練習相手のルークさんからは、ヒールで足を踏まれると痛いからやめろってよく言われてて…いや、まあ、その前に全然ダンスが上達しないわたしが悪いんですけど…」

最後の方はもごもごと口の中だけで呟いていたのだが、恐らくロックスさんには聞こえたのだろう。くすくすと囁くような笑い声が聞こえてくる。わたしは堪らず恥ずかしくなり顔を赤くさせ、それを誤魔化すようにカップに口をつけた。
遠くから針が時間を刻む音だけが聞こえる。仕事の続きをすると言っていたはずのロックスさんはまだわたしのすぐ側に佇んでいて、わたしが椅子を勧めればようやく腰を下ろしてくれた。何だか不思議な気分である。人の姿になったロックスさんと、こうして向き合いお茶をするだなんて。
ぽつりぽつりと――例えばつい最近ダンスのステップを間違えてナタリアさんに叱られたこととか、それに落ち込んでいたわたしをカノンノが励ましてくれたこととか、わたしの取り留めのない話をロックスさんは静かに聞いてくれていた。時折頷き、笑って、眉を寄せて、しかしどこか夢を見るようにふわふわと――心ここに在らずと言った目でわたしを見る。

「…それで、一度だけウッドロウさんに練習相手になってもらったんです。ウッドロウさんは上手だって言ってくれたんですけど、ルークさんは全然駄目だって言うし…」

そう話を続けながら、わたしは横目で食堂の壁にかけられた時計を窺った。針は既に三時過ぎを指している。夜明けまでどれだけの時間が残されているかはわからないが、何故だかロックスさんと別れるのが名残惜しくて、ついつい長居をしてしまった。すっかり空になってしまったティーカップをソーサーへ戻す。ナタリアさんの指導を受けていると言うのにわたしは未だ音を立てずに食器を置くことが出来なくて、かちゃん――と鳴ったその音が、ロックスさんの意識をこちらへ引き戻したようだ。

「…も、申し訳ありません!僕としたことが、お茶のお代わりを忘れるなんて…今すぐお持ちします!」
「あっ、もう大丈夫です!わたし、部屋に戻りますね。ごちそうさまです…長居しちゃってすみませんでした」

慌てて立ち上がったロックスさんがぴたりと止まった。何故だかはわからないがその瞳は大きく見開かれ、かと思いきや非常に焦った様子でわたしと時計を見比べる。一体どうしたのだろう。わたしは目を瞬かせ、彼の様子を窺った。
躊躇うように揺れる瞳がわたしに向けられる。ぴたりと目が合って、一瞬だけ息が詰まるような沈黙が落ちたあと、ロックスさんは意を決したように口を開いた。

「――っあの!」

予想以上に大きな声が食堂に響き渡り、ロックスさんは慌てたように口を押さえる。それからちらりと上目遣いでわたしを窺った。その小動物のような仕草が何だかいつもの姿の彼を彷彿とさせて胸を温めたのも束の間、何となしに机の上に置いていた手を骨張った男の人の手に掬うように握られ、思わずびくりとその手が震える。決して嫌悪ではない。ただ、驚いて――恥ずかしくて、薄い暗闇の中でもわかるほど真っ赤な顔をしているロックスさんに負けないくらい、わたしも顔を赤くした。

「よ、宜しければ…僕と一曲、踊っていただけませんか?」

無理やり搾り出したようなロックスさんの声が震えていることよりも、わたしはその震える声が紡いだ言葉に目を瞬かせて驚いた。だって、まさか、そんなことを言われるなんて思わなかったのだ。驚きのあまり頷くこともどうしてと問うことも出来ずにいるわたしの沈黙に更に顔を赤くさせたロックスさんは、拳を握り力説する。

「これでも以前はダンスを嗜んでいたこともあります!ルーク様やアッシュ様、ウッドロウ様に比べれば拙いかと思いますが…あ、あの…ご迷惑でなければ……」

次第に力をなくし項垂れるように顔を俯かせ勢いをなくした言葉は、最後、ぽつりと呟くように途切れた。

「どうか、少しだけ…この夜が明けるまで、ナマエ様の時間を僕にください…」

夜が明けるまで――彼が人の姿でいられる唯一の時間を、わたしが貰っていいのだろうか。そっと顔を上げたロックスさんは、可哀想なまでに顔を赤くして、その瞳は泣きそうに絶え間なく揺れている。もっと一緒にいたい。わたしは痛いほどに心臓を打ち鳴らしながら、そう思った。もっと、もっとこの人を――ロックスさんを知りたい。そう思った途端に、唇から呟きがこぼれていた。

「……わたしでよければ…」

いたたまれずに目を逸らすように俯き、それでもその手を恐る恐る握ってみれば、予想よりも強い力で握り返される。ありがとうございますと囁く彼の声はひどく震えているような気がして、わたしは慌てて顔を上げた。

「で、でも、ロックスさんってダンス出来るんですね。以前はっていつのことですか?」
「…それは……」

気まずい雰囲気を変えようと口にした話題は、どうやら図らずもロックスさんの地雷に触れてしまったらしい。その目が慄くように大きく見開かれ、握られた手に込められる力が更に強くなる。
彼が名乗る時に言ったことを、わたしは忘れていない。――人間だった頃の自分。彼は確かに、そう言っていたのだ。わたしはロックスさんと同じ姿をした生物を見たことがない。その答えがもしも、もしも彼のあの時の言葉ならば。ロックスさんの本当の姿が、目の前の青年なのだとしたら――。

「…聞かない方がよかったですか?」
「今はまだ、お話する勇気が…僕には…」

苦しげに寄せられた眉に、何故だか胸が痛くなる。恐らく無意識なのだろう。軋むほど握りしめられた手にもう片方の手を重ねて、少しだけ身を乗り出してロックスさんの顔を覗き込み、なるべく優しく見えるように笑顔を浮かべた。

「それならいつか…ロックスさんの気が向いた時に話してください。わたし、ずっと待ってますから」

少しと言うには長い間を置いてから、ロックスさんは俯いたままゆっくりと頷いてくれた。少なくとも、わたしはそれで十分だった。





足音を忍ばせながら甲板へ出てみれば、空の向こうが薄らと明るくなり始めていることに気付いた。もうすぐ夜が明けてしまうのだ。
ロックスさんは目を細めて空を見ていた。しかしわたしの視線に気付くと苦笑と共に目元を和らげ、吹き付ける潮風に燕尾服の裾を靡かせながら、その手を差し出した。

「ナマエ様、お手を…」
「あ、はい。…お相手、よろしくお願いします」

足踏んじゃったらごめんなさい。わたしが先にそう頭を下げてしまえば、ロックスさんは吹き出すように笑った。恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをしながらその手に手を乗せて、ロックスさんに寄り添うように一歩近付けば、腰に手を添えられる。彼の熱い手のひらに火傷をしてしまいそうな、そんな錯覚を抱いてしまった。

――打ち寄せる波の音に紛れ、互いの呼吸だけが聞こえる。緊張のあまりステップを間違えそうになるわたしのフォローをしてくれるロックスさんは、彼の言う通り以前ダンスをしたことがあるのだろう。時折わたしも彼のフォローをして、どちらともなく苦笑がこぼれるそのひと時は、まるで夢のようだった。
視界の隅に朝日に焼かれていく雲を認めながら、わたしはロックスさんを見上げた。目と目が合い、泣きそうになるのを必死に堪えながらいびつに微笑んだその瞬間。痛いほどに張り詰めていた彼の瞳から一粒だけ落ちたそれが――涙が、わたしの頬を濡らす。驚いて彼の名前を呼ぶよりも先に、くしゃりと顔を歪めたロックスさんは、決して優しくはない強さでわたしを引き寄せた。
苦しげな吐息が耳を掠める。彼の腕の中で体を震わせれば、まるで咎めるかのようにロックスさんは更にその腕の力を強めた。

「ずっと、こうして…触れてみたかった」

そう囁いてわたしをかき抱くその手に、いつもの彼らしい優しさは窺えない。しかしそれが逆にわたしの思考を痛いほどに乱して、唇から漏れる言葉にならない声にロックスさんが笑いをこぼしたのを、鼓膜を揺らす低い吐息で気付いた。
不意に、ロックスさんの肩越しにゆっくりと――それでもはっきりと、水平線から朝日が昇っていくのが見えた。もうすぐ夜が明けてしまう。

「…このまま夜が明けなければいいのに」

わたしの心の声がこぼれたのかと思ったが、それは確かにロックスさんの声だった。彼の背中にそっと手を回す。手のひら越しに感じる異性の熱に、その大きな背中に、わたしは再び泣きそうになった。

「夜が明けたって、一緒にいられますよ」

自分に言い聞かせるようにそう囁いて、ロックスさんの胸に頬を寄せる。もう波の音も聞こえない。互いの心臓の音だけが、わたしの中に響いている。彼の鼓動とわたしの鼓動が交ざり合って、溶け合って、ひとつになってしまえばいい――そんな密やかな願いは、唐突に引き裂かれた。

「いいえ、これは夢です。夜が明けてしまえば忘れてしまう、たった一夜だけの夢。僕は決して忘れません。…けれど、ナマエ様。どうかあなたは…今夜のことなどお忘れください」

そう囁いて微笑む、ロックスさんが朝日に透けて薄らいでいく。夜が明けたのだ。わたしは両頬に添えられた大きな手に縋り付くが、もうそれに熱はなく、感触もない。どうして、と問うた声は情けなく震えていた。顔を上げるようその手に促されるままロックスさんを見上げれば、頬を涙が伝い落ちて――彼はまるでそれが本当に嬉しいとばかりに微笑んで、唇を寄せた。

「一夜の夢を、ありがとうございました」


カモミールの香りに触れる度に思い出す。
あれは決して夢ではない。彼は忘れてくれと言ったが、わたしはいつまでだって覚えている。わたしはずっと待っている。夢が現になる夜を、ずっと、ずっと待っている。


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