始まりはハロルドさんの一声だった。

「これ、返すわ」

突然目の前に差し出されたそれに瞬きをする。それが見慣れたはずの学生鞄だと気付き、急いで咀嚼していたパンを飲み込んで受け取った。

「ありがとうございます。もう調べ終わったんですか?」
「ええ。鞄だけでもなかなか興味深かったけど、やっぱりナマエ自身を調べてみたいのよねえ。どう?この天才に調べられる気はない?」
「全力でお断りします」

残念、と肩を竦めるハロルドさんに渇いた笑いを漏らすしかなかった。そして膝の上に置いた懐かしの学生鞄の、傷だらけの皮をそっと撫でる。色褪せたキーホルダー、定期入れ、教科書にノートに手帳、ペンケース。この鞄の中にはわたしがどこにでもいる高校生であった頃の全てが詰まっているようだ。そう思ってしまえば、途方もない懐かしさと同時に寂しさが込み上げてくる。それを振り払うよう首を振ると、隣でカノンノが同じようにパンを飲み込んでから、興味深そうに鞄を覗き込んでいた。

「その鞄って確か、ナマエが初めて会った時に持ってたやつだよね」
「うん、地球で使ってたわたしの鞄だよ。ハロルドさんに貸してたの」

カノンノとは反対で出来たてのオムレツを頬張っていたラザリスが、唇の端にケチャップをつけたまま鞄を突ついた。

「ナマエ、これは何だい?」
「それはえーと、当時の地球で流行ってたキャラクターの定期入れ」
「てい…き?」
「う、うーん、説明が難しいなあ…。ルミナシアに電車とかバスってなかったよね…?」

首を傾げながら定期入れをいじるラザリスに何て説明しようかと首を捻ったその時、ぐふふ、と楽しげな笑いが聞こえた。わたしは咄嗟に身を震わせてハロルドさんを見上げる。彼女は輝かんばかりの笑顔だった。そしておもむろに、どこか勿体ぶるようにゆっくりと、ポケットからそれを取り出した。

「ところでナマエ。その鞄の底の方から、こーんな写真見付けちゃったんだけど」

語尾にハートマークまでつけそうなテンションのハロルドさんがくるりとそれを裏返す。一体何なんだと訝しみながらそれを目にしたわたしは、ぴしり、と石のように固まった。

「これ、…ナマエと………男の人?」

写真を覗き込んだカノンノが呆然と呟く。まるでわたしを押し退けるように写真を覗き込んだラザリスは――わたしと知らない男の人が笑い合うその光景を目にすると、まるで恋人の浮気現場を目撃してしまったかのような悲壮な顔で、その場に崩れ落ちた。





カーテンは固く閉め切られ、昼間でありながら明かりひとつない薄暗い室内。恐る恐ると言った様子のロックスさんはそっとわたしの目の前にカツ丼を置くと、泣きそうな顔でわたし達を窺いつつも、そそくさと退室する。目の前置かれたカツ丼の空腹をくすぐるおいしそうな匂いにごくりと喉を鳴らせば、湯気の向こうの彼女が聖女様の如く微笑んだ。

「食べてもいいわよ。もちろん、この写真について話してくれるなら、だけど」

わたしはさっと突き付けられた写真及びカツ丼から目を逸らす。アンジュさんの微笑みがひくりと引き攣った。

「ナマエ、あのね」
「黙秘権を主張します」
「…部屋の外でお兄さんも泣いてるわよ」
「…黙秘権を、主張します」

張り詰めた沈黙に満たされた部屋。机を挟み睨み合うわたしと彼女。中心に鎮座する、カツ丼。異様過ぎる光景だった。
その時、部屋の外からばたんどたんがっしゃーんと言うものすごい轟音と共に、悲痛な叫び声が聞こえてくる。

「ナマエー!」
「待つんだチェスター!今は取調べ中だぞ!」
「落ちついてくださいチェスターさん!ナマエさんならすぐに戻って来ますから、ね!」
「くそっ、離せ!離せよ!ナマエ!俺にだけは本当のことを話してくれ!恋人なんかじゃないよな?な!?」
「あのねえ、ナマエだって年頃の女の子なんだから恋人の一人や二人いてもおかしくないでしょー?全く…恋人ってだけでこんなになるんなら、ナマエが結婚するーなんて言い出したらどうすんのよ」
「………っ、チェスターが、息をしてない…!」
「そ、そんな、まさか…!」
「ちょっ、そんなにショックだったの!?」

救急車ならぬ救急箒に乗せられ、サイレンと共にチェスターさんは医務室へと運ばれて行った。
再び訪れた沈黙。思わず喉を鳴らしたわたしとは対照的に外の騒ぎなど一切気にしないアンジュさんは、慈愛の笑みでわたしを諭す。

「ナマエ、私は別にあなたに恋人がいたことを怒っているんじゃないの。ただ、あなたがそれを話してくれなかったことが悲しいのよ」

口を開こうとしたわたしを優しく制し、アンジュさんは微笑んだまま言葉を続ける。

「例え私の知らない相手でも、ナマエが選んだ相手なら私はいいの。だからお願い。彼のこと、教えてもらえるかな?」
「黙秘権を主張します」

わたしがそう早口で宣言すれば、再びアンジュさんの微笑みが引き攣る。こうなれば意地だと強気な態度を崩さず、もう一度頑なまでにわたしは言った。

「黙秘権を、主張します」

――かくして取調べは平行線を辿り続け、わたしがアンジュさんから解放されたのは、何と夜も更けきった頃であった。すっかり冷えてしまったカツ丼を一人で食べながらわたしは考える。それから机の上に置き去りにされた写真へ手を伸ばし、裏返しにしてポケットにねじ込んで、空になった丼を手に素早く部屋を後にした。





食堂はさすがに誰もおらず、遅くまで朝食の仕込みをしているロックスさんもさすがに休んでいるようで、そっと丼を洗って戻しておくことが出来た。それからわたしは部屋には戻らず、アンジュさんもいないホールを横切って甲板へ出る。予想通り一人佇んでいたセルシウスは、わたしを見て不思議そうに目を瞬かせた。

「もう真夜中よ。こんな時間にどうしたの、ディセンダー」
「ちょっとね」
「…あら、それが噂の写真?」

ポケットから取り出した写真を目敏く見付けられ、わたしは思わずむっと眉を寄せたが、セルシウスは静かに笑いをこぼす。わたしはそんな彼女の隣に並ぶよう甲板の縁に背中を預けて、星空を見上げるように写真を掲げた。隣のセルシウスは興味深そうに写真を覗き込む。

「あなたの恋人?」
「違うよ。…って言うか、セルシウスでもそんなこと聞くんだね」
「他ならぬあなたのことだもの」

わたしは苦く笑う。それから掲げた写真を両手で掴み、力を入れて、びり、と小さく破れるような音がして――。

「そこで何をしている」

驚きのあまり力を入れ過ぎて思いっきり破いてしまった。いや、別に構わないんだけど。破ろうとしていたんだけども。
いつの間にかそこにいたのは、休む前だったのか普段よりラフな格好をしたリオンさんだった。時折お世話になっているマントもなく、しかしその腰には見慣れた剣を携えて、不機嫌そうな顔で歩み寄って来た。

「もう真夜中だぞ。こんな時間に甲板で何をしているんだ」
「べ、別に何も…」
「…それは…」

リオンさんは真っ二つに裂けた写真を見て口を閉ざした。わたしもまさかこんな時間に誰かが来るとは思わず、だからこそ写真をこっそりと処分しようとしていたのだが、はてさてこれはどうしようか。気まずい沈黙が落ちる。しかし、セルシウスはその空気を読んではくれなかった。

「写真の彼は恋人ではないそうよ」
「は?」
「ちょ、ちょっと、セルシウス…」

動揺するわたしに構わず、セルシウスはそっと微笑んだ。

「よかったわね、二人とも」

リオンさんは思わずと言った様子で目を見開き息を詰まらせる。しかしすぐに舌打ちをして乱暴に背後の扉を開けば、扉に張り付いていたのかリオンさんと同じくラフな格好に剣だけを装備したルークさんが、前のめりに甲板へ飛び込んで来た。
体勢を崩しかけるもさすがは剣士と言うべきだろうか、難なく踏み止まり気まずそうな顔をしたルークさんを、リオンさんは冷たい目で一瞥した。

「ふん、一国の王子が盗み聞きか」
「ぬ、盗み聞きなんかしてねーよ!俺が甲板へ涼みに行こうとしてたら、お前らの方が勝手に話し始めたんだろ!」
「物は言いようだな」

写真を手にしたまま驚きに固まるわたしの視線に気付いた二人が揃ってこちらを向く。わたしがたじろいだような、彼らもまた気まずげにたじろいだ。しかし、やはりセルシウスは空気を読んではくれない。

「ディセンダー。恋人じゃないのなら、彼は誰なの?」
「えっ、今それ聞くところかな…」
「聞かせてほしいわ」

真っ直ぐなセルシウスの視線から顔を逸らし、二つに裂けた写真を見下ろす。――本当は、黙秘するほどのことではなかったのだ。しかし、土足で踏み荒らしても構わないと思えるほどにどうでもいいことではない。何よりも恥ずかしかった。あんなに大勢の人に騒がれ、恋人でもない、ただの思い出だと言うのも。セルシウスを窺い、それから心なしかじっとこちらを見るリオンさんとルークさんを窺ってから、わたしは口を開いた。

「……昔、って言っても…まだ少ししか経ってないかな。地球にいた頃は学校に通っていて、憧れていた一つ上の先輩が卒業しちゃうから、一緒に撮ってもらったの」
「…彼が好きだった?」
「憧れていただけ」

たったそれだけの話だ。わたしは写真を細かく千切ると、そのまま暗い海へとばら撒いた。思っていたよりも悲しくはなく、むしろこれでアンジュさんの追求を逃れられるかと思えばほっと胸を撫で下ろしたいくらいだ。そっと閉じた瞼の裏に鮮明に描ける先輩の笑顔に胸がときめくことはなく、結局は恋にもならない憧れであったのだと、何年か越しにわたしは気付いた。

「…恋がしたいなあ」

――ぽつりと、誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟く。
それからしんみりとした気分を払うよう首を振って目を開ける。すると隣のセルシウスが涼やかに笑いをこぼしていて、わたしは不思議に思い彼女を窺った。

「セルシウス、どうかしたの?」
「いいえ、何でもないわ。…ディセンダー、きっとすぐに素敵な恋が出来るわ。あなたが気付いていないだけで、あなたを愛してくれる人は、すぐ近くにいるはずよ」
「…それって、精霊の勘?」
「そうね、強いて言うのなら…」

そう言いかけて、セルシウスはわたしから目を逸らす。釣られるように彼女の視線の先を見れば、わたしと目が合った二人の肩がぴくりと跳ねた。さっと顔を逸らされる。まるで取調べ中のわたしのようだと思いながら、セルシウスの言葉に首を傾げた。

「いつもここから全てを見届けている者の予言、かしら」



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