船を降りようとした時、リカルドさんに恐ろしく遠回しながら大丈夫かと聞かれた。首を傾げればお前は鶏かと馬鹿にされ、ようやく思い出したのは数ヶ月のこと。彼とこうして気安く話せるようになったきっかけでもあるちょっとした事件だった。
確かにそのせいでこの港街ではほんの少しだけ怖い思いをしたが、そう何度も同じような体験をするとは思えない。そもそもこの美女美少女の溢れるルミナシアにおいてわたしみたいなちんちくりんに迫る男の人なんてかなり奇特な部類に入るだろう。自分で回想しておきながら何となく虚しい気分になったが、これが世の真理なのである。
それでも渋い顔をするリカルドさんに不謹慎ながらも心配してくれてるんだと胸を温めながら、船を降りて市場へと足を向けた。心配をかけているお詫びも兼ねて何か彼の好きそうなものでも買って帰ろう。そう思い立ちさて彼の好きそうなものとは何だろうと首を傾げつつ、活気溢れる市場に行き交う人混みに流されていく。
久しぶりに杖も持たずにいた軽い腕を掴まれ振り向いたのは、その時だった。

「すみませんでした!」

あまりに突然起きた出来事に思わず反応が遅れてしまった。呆然と目を瞬かせ、わたしの手を引き深々と頭を下げるその人を見下ろす。先程まで活気に溢れていた市場が一瞬にしてしんと静まり返ってしまった。
ようやく我に返って何故だか知らないけど謝られているんだと気付き、そこらじゅうから突き刺さる好奇の視線にいたたまれず身を竦めた。

「あっ、あの…謝られるような心当たりはないんです、けど…?」

暗に人違いじゃないですかと問えば、目の前の人はぴくりと肩を震わせる。それから恐る恐る、窺うように上げられた顔には奇しくも見覚えがあった。思わず息を呑む。

「…あの時の…!」
「お、覚えていてくれましたか…」
「そ、そりゃ、まあ…」

隠すことなく顔を引きつらせ、さりげなく掴まれた腕を外そうと身じろぐ。何の遠慮もなく痛いほどの強さで捕われた腕が、目の前のこの人に味わされたあの時の恐ろしさを微かに思い出させた。
忘れられるはずがない。依頼人を装ってわたしに近付き、そのまま路地裏に連れ込み、何をトチ狂ったのかものすごく強引に迫ってきて、あわやと言う寸前で助けてくれたリカルドさんに昏倒させられた人。そう、つい先程回想した、この美女美少女の溢れるルミナシアの住人でありながらわたしのようなちんちくりんを相手にした世にも奇特な男の人だ。
わたしの警戒が伝わったのだろう。可哀相なくらい顔を青くさせたその人は、それでもわたしの腕は離さず、泣きそうな声で再び頭を下げた。

「本当にすみませんでした!その、つい…って言うか、テンションが上がっちゃって……」
「…テンション………」
「だ、だからって強引なことをして怖がらせてしまって…本当に、本当にすみませんでした!でも、密かに憧れていた君を目の前にしたらいてもたってもいられなくて…」
「…ええと、そのことについてはもう気にしてないんで、頭を……」
「あの後、謝らなきゃと思って君を探したんだけど…君の姿はおろかバンエルティア号も見えなくて…。だからきっともう二度と会えないんだあんな失礼なことをしたのに謝ることも出来ないんだって思ったら、もう…もう…!」
「いや、だから……」
「それでもいつかまたバンエルティア号が来てくれるんじゃないかと思って、あれから毎日毎日…朝も昼も夜も港でずっとずっとずっとずーっと、君を待ってたんだ!」
「相変わらず話聞かないなって言うか、ストーカーか!!!」

わたしの心からの叫びを皮切りに、遠巻きに様子を窺っていたやじ馬のひそひそがざわざわへと進化してしまった。ストーカー?えっ、もしかしてあの子絡まれてるの?修羅場とかじゃなくて?もしかして、騎士団呼んだ方が…。まで聞こえたところで、慌ててそう言えば名前すら知らない彼の手を引いて一目散に市場を後にした。活気があって人も優しくてお気に入りの港だったのに、きっともう二度と来れない。軽く涙を飲みながらもわたしはただひたすら戸惑う彼の手を引いて走った。
そんなわたしの背に突き刺さる視線などあまりにも多過ぎたことは、果たして言い訳になるのだろうか。





市場から離れ、かと言って人目につかない場所など思い付かず。仕方なく再びアンジュさんの言い付けを破ってしまいながらも路地裏で話をした。
少しだけ人の話を聞かず暴走してしまう猪突猛進な彼だが、どうやら本当の本当にわたしを好いていてくれたらしい。仕切り直させてほしいと頭を下げた彼にもう一度、今度はちゃんと告白をしてもらって、微かな逡巡のあとにちゃんと頭を下げてお断りをした。もしかしたらわたしなんかを好きだと言ってくれる唯一の人だったかもしれないけれど、そんな理由で受け入るのはあまりにも失礼だった。そりゃわたしだってお年頃だし、告白されて本当に嬉しかったし、男女のお付き合いに興味がないわけではないけれど。でも。
すっきりしました、と泣き笑う彼を慰める資格はわたしにはない。せめてもと名前を教えてもらい、互いに頭を下げ合って、いつかまたと笑ってお別れをした。

「よう」

ら、ユーリさんに遭遇した。
驚きのあまり呆然とするしかないわたしとは対称的に、そのしなやかな体を路地裏の冷たい石の壁に預けたユーリさんは、それはもういつも通りだった。いつも通りにどことなく斜に構えたような雰囲気で、唇は皮肉げに薄く弧を描き、艶やかな黒髪は夕日の注がぬ薄暗い路地裏へと溶け込むように。
わたしとあの人が話をしていた路地裏のすぐ側の曲がり角で、とても気軽に手を上げた。

「…な、なに、してるんですか」
「散歩だ」
「散歩で来ていい場所じゃないと思いますけど…」
「下町育ちの俺にとっちゃ、こんな路地裏ただの散歩道だよ」

ゆるりと細められた瞳はまるで気まぐれな猫のよう。ぴり、とうなじを撫でた些細な痺れは気のせいだろうか。そう片付けるには何だか彼の言葉が、纏う空気が、妙に刺々しいような気がするけれど。

「お前」
「はい?」
「あの男に告白されてたな」

聞かれてた。

「しかも、前にも告白されて迫られたらしいじゃねえか」

そこまで聞かれてた。この人いつからそこにいたんだろう。と言うか、あれ、ここでは前回の話はしていないような。
とん、とユーリさんの爪先が石畳を叩く。そんな小さな音にさえわたしの肩が大袈裟に跳ねた。ぴりぴりと走る小さな痺れはうなじは痛いほどで、何故だか暗に聞いてねえぞと、そう言われているような気がした。

「……そ、そう…ですね…。いや、あの、終わったことなんで…」
「…へえ」
「ちゃんとお断りはしました。…だからもう、この話は」

終わりに。そう言葉を続けたかったのに、不意に差した影に遮られた。
足音すらなくいつの間に目の前にいたのだろう。そんな疑問を抱くのすら全てが終わったあとで、きつく掴まれた肩が冷たい壁に押し付けられる。微かな痛み眉を寄せたのも束の間、顎へと添えられた大きな手が強引とも呼べる強さで顔を上げさせて、そして。

「どこまでされた?」

唇が触れ合うような距離でそう囁かれた。わたしを見下ろす菫色の瞳は暗く陰り、近過ぎるあまりに焦点が合わず視界はぼやけ、わたしは思わず息を呑んだ。わたしを囲み見下ろす彼の長い黒髪がさらりと頬を掠め、びくりと体が跳ねる。

「…ユ、ユーリさん、退いて…!」
「迫られたんだろ?どこまでされたか答えろって言ってるんだよ」
「なんっ、何でそんなこと…」
「は?」
「正にこんな感じでした!」

羞恥心と恐怖に一瞬で敗北したわたしは半泣きでそう叫んだ。必死に記憶を手繰り寄せながら、嘘は言っていないと自らを納得させる。もちろん直後にリカルドさんに助けてもらったので色々と未遂なのだが、その時のわたしにはそれを彼に伝えられるほどの余裕がなかったのだ。
――思いのほか近くで聞こえた舌打ちに、沸騰していた脳が音を立てて冷めていく。わたしは思わずこれ以上後ずされもしないのに押し付けられた壁へ更に身を寄せた。顔を背けようにも添えられた手が逃がさないとばかりにわたしの顔を固定していて、だから――近付いてくるユーリさんの顔を避けることは出来なかったのだ。

「っちょ、ん、…んんっ」

それは一瞬だったと思う。優しさの欠片もなく自分勝手に奪っていく唇を拒むことも出来ず、ただきつく目を閉じる。怖くないわけではない。しかし、あの時と違って嫌だと感じない自分がいることに、わたしは密かに驚いていた。
そっと唇が離れる。顔を固定していた手はそのままだったが、わたしはきつく閉じていた目を恐る恐る開き、混乱を通り越して呆然としながら呟いた。

「……ここまでされてません」
「へえ、そうか」

そうかじゃねーよ。
全力でそう突っ込みたいところを何とか堪え、今更ながらに湧き上がってきた羞恥に顔を赤らめる。ユーリさんは先ほどの舌打ちなどまるでなかったかのように機嫌を直したようで、再び寄せられた唇は啄ばむように優しかった。――わたしの呼吸が限界を迎える前に濡れた音と共に唇が離れ、咳込みながら潤んだ視界でユーリさんを睨み付けるように見上げる。

「ごちそうさん」

その笑みに込み上げてきた熱い何かは、一体何だったのだろう。
壁に預けていた体がユーリさんに手を引かれて壁を離れる。ユーリさんは先ほどの行動がどれだけわたしに衝撃を与えたのかなどまるで知らないように、わたしの手を引いて歩き出した。ユーリさん、と戸惑いながらその背に声をかける。

「どこに行く予定だったんだ?」
「へ?」
「買い物、行くんだろ?付き合ってやるよ」
「えっ、全力で遠慮しま…あっいえ何でもないです是非ともおねがいひゃいいひゃいいひゃい!」

何なんだこの人。もう一度言う、何なんだこの人。
抓られてひりひりと痛む頬を摩りながら、心なしか拗ねたように憮然とした表情になってしまったユーリさんにため息を吐きたい衝動を必死に堪えて、わたしは大人しく歩きながらも――熱に浮かされたようにそっと唇を撫でた。



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