痛みが残っているわけじゃない。覗き込んだ鏡の中の瞳は逆に違和感すら抱くほどいつも通りで、それが気になるだけだ。

「ナマエ、どうかしたのか?」

心なしか心配の色を含んだその声に顔を上げる。
頬を撫でる風は柔らかく、鼻に触れる花の匂いは優しい。アドリビトムに来てから思うようになったが、その国の雰囲気が顕著に表れるのは空気だと思う。
ラントの空気は、どこまでも暖かい。

「すみません、ちょっとぼーっとしてました」
「そうか、それならいいんだけど…。っと、ソフィ!一人で先に行っちゃ駄目だろ!」
「大丈夫、シェリアも一緒だよ」
「私から離れちゃ駄目ってことよ、もう」

無表情ながらに目を輝かせるソフィさんの手を取り、シェリアさんが小さくため息を吐く。しっかりと繋がれた二人の手に胸を撫で下ろすスベルさんは本当に優しい顔をしていて、何と言うか、わたしは非常に居心地が悪かった。
お祭りがあるんだよと、ソフィさんに誘われてやって来たガルバンゾ国ラント領。何度か立ち寄ったことはあるものの、こうして観光のように訪れるのは初めてだった。
街のいたるところに色鮮やかな花が飾られ、道なりに屋台が並び、人々は笑いながら行き交い、どこかから明るいリズムの音楽が聞こえている。

「お祭りって初めて来た。すごいね、ナマエ」
「わたしもルミナシアのお祭りに来たのはこれが初めてですけど、すごく賑わってて楽しいです。ラントっていいところなんですね」
「ふふ、そうでしょう?ラントのお祭りはガルバンゾ国でも有名だから遠くから訪れる人も多いのよ。ソフィもナマエも、逸れないよう気を付けてね」
「ナマエも手、繋ぐ?」
「や、やめときます…」

手を繋ぎ笑いながら先を行く二人を眺めそっとため息を零す。前髪に隠すよう俯きながら、何度となく確認するように恐る恐る左の目尻に触れた。
セルシウスから貰ったマナで元通りになっているが、この目は確かに花が咲いていたのだ。仄かに輝く赤色の花を思い出しては胸が騒ぐ。この瞳は人間のそれだろうか。人間のそれに、見えているだろうか。

「シェリア、少しいいかな」
「どうしたの?」
「ナマエを案内したい場所があるんだ。少しだけソフィと一緒にお祭りを回っててほしい」
「え?」
「ええ、大丈夫だけど…」
「ありがとう、すぐに戻るよ。ナマエ、行こう」
「えっ、えっ?」

アスベルさんに手を引かれ、みるみる内に二人から離れていく。お祭りを巡る人々の流れに逆らうよう進むアスベルさんは器用に人の合間を縫っていた。必死になって彼の背中を追っていれば、不意にアスベルさんが足を止めた。
わたしはと言えば止まりきれず、そのままアスベルさんの背中にぶつかってしまったが。

「わぷっ」
「あっ、すまない!少し急ぎ過ぎたかな…大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。それよりアスベルさん、どこに行くんですか?ここ、お祭りの入口近くですよね」

見上げる大きな花のアーチはついさっき見たばかりのものだ。相変わらず見事なものだと見惚れていると、アスベルさんはきょろきょろと辺りを見渡す。そしてお目当てのものを見付けたのか、口早に少し待っていてくれとだけわたしに告げ、そそくさと走り去っていった。
一体わたしは何のために連れて来られたのだろう。首を傾げながらも言い付けられた通りアーチの近くで待っていると、しばらくしてアスベルさんが戻って来る。
その両手に、たくさんの花を抱えて。

「アスベルさん?どうしたんですか、そんなにたくさん…買って来たんですか?」
「まあ、ちょっとな。ナマエ、こっちだ」

アーチを潜り、お祭りの喧騒も遠退き、ついには街並みからも離れてしまった。右へ左へ進んでいくアスベルさんの足に迷いはなく、その背中を追って行く内に再び彼が足を止める。
街を遠く望む、穏やかな風が吹き抜ける場所で。

「こういうのはシェリアが得意だったからよく見てたんだが、覚えてるかな…」
「ええと、どうかしましたか…?」
「左目、気になるんだろ」

閉口し、腰を下ろしたアスベルさんの隣に座る。彼はどこか仕方がないと言うかのように優しく、少しだけ寂しく笑って抱えていた花束から小さな花を一輪抜き取った。ピンク色の、愛らしい花。ソフィさんに似ているなと思いながら、それを手に首を傾げるアスベルさんをぼんやりと眺めた。
気付いていた。気付かれていた。シェリアさん達は変に思わなかっただろうかと、穏やかに笑い合う二人を思い出す。彼女達の目に、わたしはどう映っていたのだろうか。

「…うん、出来た」

俯かせていた頭に、ふわりと、優しく何かが落ちてくる。
目を瞬かせて顔を上げる。指先で触れてみれば、ぽろりぽろりと、色とりどりの花が零れてきた。え、と思わず声を漏らせば、アスベルさんが頭を抱えた。

「あー…やっぱり駄目だったか。シェリアが作っていたのを思い出しながらやったんだけど、意外と難しいな…」
「これ…花冠、ですか?」
「失敗だったけどな。ああ、髪についてる」

頭上で脆く崩れてしまった花冠から零れ落ちてくる花を、アスベルさんがひとつひとつ丁寧に摘んでいく。何だか気恥ずかしく思いながらじっとしていると、ひとつの花が左のこめかみ近くで留まった。
アスベルさんの手が左目に伸びる。はっと息を呑み左目を押さえ、その手を拒絶するように首を振った。その拍子にぽろりと、髪から花が落ちた。

「…ナマエ」
「ご、ごめんなさい…」
「そんなに怖がらないでくれ、花を取るだけだ」
「わかってます…。わかってる、けど…」

触れられたくない。それを言葉にすることも出来なくて、ただ左目を押さえ俯いた。
一筋の風が優しく、わたし達の間を通り抜けていく。ひとつひとつ拾い集めた小さな花達を手に、アスベルさんが徐に口を開く。

「あの時さ、」

そろりと、右目だけでアスベルさんを窺う。彼はわたしを見てはいなかった。手の内に集めた花を見下ろし、どこか自虐的な笑みを浮かべる。何かが焦げ付いて離れないもどかしさを堪えたように。

「本当のこと言うと、綺麗だって思ったんだ。見惚れてたんだ。ナマエがどんなにその目を疎んでいたとしても、俺はどんなナマエだって綺麗だと思う」

彼の手にある花々は少しくたびれ、しおれているように見えた。
優しい風がその花を掬い上げ、わたしの頬を掠めてどこかへと散らしていく。それを追うように伸ばされたアスベルさんの手が、指先が、左目を覆い隠すわたしの手に触れた。
優しく、優しく。労るように、慈しむように、哀れむように、愛でるように。

「違うからこそ、惹かれるんだろうな」

いつの間にか、左目を覆っていた手は彼に取られていた。わたしより大きく、節くれだった異性の手に包まれる。
世界が止まったようだった。少なくとも、わたしと彼の世界はこの一瞬に縫い付けられていたのだろう。互いの世界に互いしかいない。それはどうしてこう、甘美な錯覚なのだろうか。
しかしそれも本当に一瞬。ざあ、とわたし達の間を吹き抜けた風に二人して我に返る。それと同時にどちらともなくぱっと手を離した。

「さっ、さて、ナマエはどんな花がいい?せっかくナマエに作る花冠なんだから、ナマエの好きな花がいいよな!」
「え、ええと…それじゃあ、」

わたしが釣られたのか、それとも彼が釣られたのか。そんなこともわからず揃って顔を赤くしたまま、それをごまかすように視線を落とした花束の中からふと目に留まった花をするりと引き抜く。
アスベルさんは少しだけ不思議そうな顔をした。様々な色をした花が溢れる花束の中から、まさかこれを選ぶとは思わなかったのだろう。けれど、この薔薇のように鮮やかな赤い花は。

「あの子のくれた花にそっくりだったから」

疎ましく思っているのは嘘じゃない。恐ろしいと思っているのも事実だけど、でも、あの子のくれた花を美しいと思ったこの心も、嘘ではないから。
ふと優しく唇を綻ばせたアスベルさんがわたしの手から花を受け取る。真剣な顔で花冠を編み始めた彼の隣、その拙い手つきを静かに眺め続けた。

恐る恐ると言った様子で乗せられた、少しだけ不格好な花冠。それがちょうど左目を隠すようにずり落ちて、アスベルさんはきょとんと目を瞬かせ、わたしは思わず泣きそうになりながら笑う。そして、その手を取った。
今この時だけ、そこに咲くのはあの子のくれた冷たい花じゃない。この左目に咲くのは、彼が咲かせたあたたかく赤い花。



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