エミルさんの中にはラタトスクさんと言う名のもうひとりがいる。
彼はエミルさんとは似ても似つかないくらい乱暴な性格で、あの優しい緑色の瞳が赤く吊り上がる時はわたしですら恐ろしく感じる。嬉々として剣を振るい敵を罵倒する彼は、文句なしにわたしの苦手なタイプだった。ぶっちゃけて言うと怖いので関わりたくないと切実に願っていた。
それなのに、これは一体どうしたことだろう。エミルさんと平和にお茶をしていたはずなのに、いきなり勢い良く立ち上がった彼は踵を返し扉の鍵を閉めた。がちゃり、無情な音が響く。
爛々と輝く赤い瞳が目を白黒させるわたしを振り返る。赤色の瞳をした彼はもうエミルさんではなく、ラタトスクさんだった。





部屋の隅っこで身を縮こませるわたしの頭上にある壁が、ラタトスクさんの拳に殴られて揺れる。悲鳴を上げなかっただけ頑張ったと褒めてほしい。
頭上の照明が遮られる。恐る恐る見上げれば、暗く輝く赤い瞳がわたしを見下ろしていた。

「こうやって話すのは初めてだな、ディセンダー」
「…そ、そう、ですね」

ラタトスクさんを戦闘中以外で見たのは、本当に初めてのことだった。びくびく震えながら答えるわたしを見下ろす彼の唇は吊り上がり、弧を描いている。
何これ。何この状況。ついさっきまで二人で愚痴を零しながらお茶をしていたはずなのに。何でいきなりラタトスクさんが出てきたのだろう。
頭上の壁に置かれていた拳が緩く開かれ、するりと壁の表面を撫でてわたしの顔のすぐ側でその手は止まる。

「…お前、」
「はっ、はい!」
「エミルと仲が良いんだな」
「うえ?…ま、まあ…」

何でそんなことをと思いつつ、別に間違いでもないので頷く。
わたしとエミルさんは似た者同士なのでとても気が合うのだ。顔を合わせればお互いに愚痴を言っては励まし合うような仲である。もちろん同じ理由によりルカさんとも仲がいい。ちなみに涙ながらに愚痴を語り合い励まし合うわたし達三人をたまたま目撃した見たリタさんにさながらアドリビトムいじめられっ子の会ね、と名付けられたのはつい最近のことである。全くもって不名誉だが三人揃って否定も出来なかった。切ない。
そんなことはさておき、自分から聞いておいて不愉快そうに鼻を鳴らしたラタトスクさんは、もう片方の手で壁を殴る。今度は悲鳴を堪えられず、体を震わせた。

「俺を呼べ」
「…は、い?」
「名前だよ、名前。まさか知らないわけじゃねえだろ?」
「…………ラタトスクさん」

意味がわからないまま恐る恐る彼を呼ぶ。その声は隠し切れないくらい震えていた。
彼のご要望に応えたはずだが、ラタトスクさんは益々不愉快そうに眉を吊り上げる。握られた拳が、耳元でぎしりと鳴った。

「セルシウスはそのままで呼んでるだろうが。何で俺はさん付けなんだよ!」
「なっ、ええ!?」
「俺がエミルと同格なんて冗談じゃねえ…!」

本当に目を白黒させるしかない。何でセルシウスを引き合いに出してくるのとか、エミルさんと同格って何とか、色々と突っ込みたいところは多々あったがとりあえず状況について行けなかった。
胸倉をきつく掴まれる。ぶちりと言うどこかの釦が外れる音と血の気の引く音が聞こえ、思わずぎゅっと目を瞑った。けれど、想像していたような痛みも衝撃も来ない。
恐る恐る目を開ける。輪郭すらぼやけるような至近距離で、その人はゆるりと唇を吊り上げた。

「っんむ!?」

唐突に唇を撫でた彼の親指が、呆けて開いたままのわたしの唇に強引に捩込まれる。他人の指が舌を撫でる妙な感覚に反射的に込み上げた吐き気に眉を寄せるが、彼はお構いなしに口内を探った。
胸倉を掴まれ口内に指を突っ込まれ息苦しいし恥ずかしいし頭は混乱しているし本当な散々な目に合うわたしを見下ろすラタトスクさんは、何と言うか。心なしか酷くうっとりと、恍惚に赤い瞳を輝かせているように見えた。

「ほら、呼んでみろよ」
「む、むり…っぐ、」
「ああ?無理なんて言ってんじゃねえよ。まだ一本しか突っ込んでないだろうが」

一本しかって何だ。二本目も突っ込むつもりなのか。息苦しさと嘔吐感と指が口内を撫でる度に込み上げる妙な感覚に涙が滲んでくる。
酸欠なのか思考は熱に浮されたように曖昧で、いつの間にか割り開かれていた足が震え爪先が床を蹴る。わたしを見下ろす赤い瞳は爛々と、無言に輝き催促していた。

「ら、らたと…ん、んんっ!」
「聞こえねえ」
「ゆび、ゆびぬいてくらひゃ…っ」
「あー聞こえねえな」
「や、やあっ、んく、…っひ!?」

いつの間にか胸倉から離れていた手はわたしの髪をかき上げ、晒された耳をくすぐった。抗議するように見上げるも、彼の唇は本当に楽しそうに弧を描いていて。
思わず全力で泣きそうになった。言わせる気ないだろこの人!
彼の指が歯茎の内側を撫で同時に耳の内側がくすぐられ、思わずぶるりと腰が震えた。どうしてこうなったのか全くわからないけれど、このままではいけないとわたしの中でけたたましく警報が鳴り響く。けれど壁と彼の体に挟まれた体は微動だに出来ないし、両手は何故か今にも崩れ落ちそうになる体を支えるために彼に縋り付いている。
だから。だから、かぷりと。せめてもの反抗として、口内に突っ込まれている彼の指を噛んだ。

「…………」
「………ら、らたとすく、………さん」

無言。いや、言い訳をさせてもらうなら甘噛みだから許してほしい。そしてエミルさんならまだしもラタトスクさんを呼び捨てなんて出来るわけがないと主張したい。今にも恐ろしくて失神しそうなのに。
見上げたラタトスクさんが本当に無表情で、わたしが噛んだ指も唾液に濡れたまま唇に添えられているだけ。ああ、甘噛みとは言えもし痕が残っていたらラタトスクさんはともかくエミルさんに何て謝ろう。マルタさんにバレたらそれこそ死んでしまう。バンエルティア号を代表する恋する乙女はエミルさんのことに関してだけは恐ろしいのだ。
現実逃避をするわたしの唇を、添えられていた指が撫でた。肩が震える。わたしの髪をかき上げ耳を撫でていた手はそのまま首筋を伝い胸元のリボンをするりと落とし、触れるか触れないほどの優しさで鎖骨を撫でる。もう、落ちたリボンの行方など気にしている暇はなかった。

「ラタトスク、さ、」

金色の睫毛も、赤色の瞳も、視界の中で淡く溶ける。凍り付いたわたしの唇に何かが触れた。本当に一瞬だった。それが何かを理解する前に、目の前のラタトスクさんが勢いよく飛び退いたからだ。
壁を背にしたまま固まる。向かい側の壁を背にしたラタトスクさんが、今にも爆発しそうな赤い顔で、泣きそうな緑色の瞳を揺らして叫んだ。

「ごっ、ごめん!本当にごめん!ラタトスクが…ラタトスクが…!」
「………エミルさん…?」
「うううっ、うん!ごめん!ごめんなさい!あ、謝って済むことじゃないけど…!!!」
「…えっ、ま、待って!土下座なんてやめてください!顔上げて!わたしなら大丈夫ですから!」

わたしより恥ずかしそうな、そしてそれ以上に申し訳なさそうに泣きそうな顔を真っ赤にしたエミルさん。さっきまでの荒々しいラタトスクさんの欠片すらない彼は、直視しないよう思いっきり視線を逸らしながらも釦が外れリボンが解かれた胸元を隠すよう強引にわたしにマフラーを巻いた。
結局何だったのだろう。盛大に居心地の悪そうなエミルさんを見る。優しそうな、気の弱そうな少年だ。彼の中にいるもうひとり。ほとんど初めて会話をしたようなそんな程度の仲だった。そういえば彼は何故エミルさんの中にいるのだろう。どうして、あんなことを。
まだ少し濡れた唇を噛み、マフラーに顔を埋めた。瞼の裏に、赤い瞳が輝いていた。



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