肩を震わせ、涙を流し、これは悪い夢だと自分に言い聞かせていた。いつか、いつか目が覚める。そしてまた何も変わりのない、いつも通りの平凡な日常を送るのだ。
お父さんとお母さんがいて、友達がいて、当たり前のように平和な世界で生きていく。
だから、これは全て夢なのだ。ルミナシアと言う異世界も、聳える世界樹も、ディセンダーなんて称号だって、夢。
けれど、そんな淡い希望を摘み取ったのは、他でもないわたしの血に濡れた手だった。





サレと言う人について、わたしが知ることは少ない。
紫色の髪が映える、病的なまでに白い肌。仄暗い瞳に光はなく、唇にはただ薄い笑みを浮かべている。卓越した剣の腕に、嵐を起こす力。冷たい美貌の青年騎士。
彼に出会って半年。わたしは変わらず、柱時計の隣に置かれた椅子に座り彼の帰りを待っていた。革の冷たさにも慣れ、薄暗く鎖された部屋に怯えることもない。木の杖を抱え、窓の外を眺め、ただ、彼の部屋で彼の帰りを待つ。
彼は、サレはわたしの、全てだった。

「ただいま」

城下街が夕闇に支配されていくのを、ただ眺めていた。
鍵と扉が開く音。そして帰来を告げる声に顔を上げる。踵を鳴らし部屋へ入って来たサレは、その美貌を歪めどこか不機嫌な様子だった。
少なくとも、サレの言い付け通り部屋から出ずに彼を待っていたわたしのせいではない。彼の機嫌を損ねたのが誰だか知らないが、その憂さ晴らしに付き合わされるのはわたしであることを知ってほしい。

「おかえりなさい」
「うん、ただいま。今日もいい子に僕を待っていたんだね、ナマエ」
「はい」

軽く憂鬱な気分になりながらも、眉一つ動かさずサレを迎えた。不機嫌な様子のサレだったが、わたしを見てふとその纏う空気を緩める。椅子から立ち上がろうとしたわたしを制し、腰を折る。その美貌が近付いて来るのにはどうしても慣れず、反射的に瞼を震わせた。
冷たいその唇が、軽く額に触れる。これにも、まだ慣れない。
どうやら、少し機嫌が直ったらしい。いつもはわたしの機械的な返事に、つまらないとばかりに不満げな表情を浮かべるのに。
踵を返したサレは、手早くマントを外しソファーに放る。片付けようと腰を上げかけたわたしを、サレが呼んだ。

「ナマエ」
「はい」

返事をする。彼に拾われた当初、微かな反抗心から返事をせずに失血死寸前にさせられたのが懐かしい。
サレは、軍服の襟元を緩めながらベッドに腰かけた。剣を枕元に置きながら、笑顔で手招く。

「おいで」
「……はい」

機械的な返事も、この時ばかりは躊躇いが生じてしまう。
杖を置いてベッドに近寄れば、手を引かれベッドに腰をかける。寝転んだサレは小さく息を吐き、どこか疲れているようにも見える。ぼんやりとその姿を眺めていると、不意に髪を引かれた。

「ねえ、ナマエ」
「はい」
「アドリビトムってギルド、知ってる?」
「いいえ、知りません」

そんなもの知らない、教えてもらっていない。
それは何より一番、あなたが知っているはずだ。サレは寝転がったまま、愉快そうに笑う。

「ふふ、そうだよねえ。ナマエは、アドリビトムなんて知らないよね」

何だかよくわからないけれど、サレが満足そうなので返事を間違えてはいないらしい。
心の中で安堵のため息を吐くわたしに気付かず、サレは髪を玩びながら、楽しげに言葉を続ける。

「ガルバンゾ国のエステリーゼ姫、覚えてないかな?君がこのルミナシアに落ちて来た時、あの場所にいたんだけど」
「…ピンク色の髪の、女の子ですか?」

国名も人名も顔すら覚えていないが、その非常識な髪の色は記憶に残っている。逆に言えば、他にも人がいたような気はするがピンク色の髪の女の子以外は全く覚えていなかったので、消去法で彼女しかいなかったのだ。
けれど、予想に反してサレは頷いた。

「そう、正解。よく覚えてたね」
「彼女がどうかしたんですか?」
「アドリビトムに入ったみたいでね、君を返せって言われた」
「…は?」

あまりに突拍子のない言葉だったので、思わず素に戻ってしまった。慌てて口を押さえれば、サレは肩を揺らした。彼は、機械的な会話に徹するわたしが不意に素に戻る瞬間が好きなのだ。
髪から手を離したサレがその手を伸ばし、わたしの体を引き倒す。必然的に彼の胸に体を預ける形になり、彼の纏う甘酸っぱいような匂いが居心地の悪いことこの上ない。

「ほら、君は彼女達の目の前で僕に連れて行かれちゃっただろう?それを気にしているのか何なのか知らないけど、返せ、だってさ」
「…はあ……」

部屋に入って来た時の不機嫌の理由は、それか。
サレと言う人は、少々、いやかなり、性格に難がある。半年近く彼の側で過ごしていたわたしは、正しく身を以って知っていた。
笑顔で人の心を踏みにじる性の悪さはもちろん、手に負えないのはその気分屋なところ、独占欲や支配欲の強さである。
名目上はウリズン帝国所属のわたしだが、事実上この城内ではサレ個人の所有物として扱われている。顔を覚える気もない皇帝や、欲に肥えた貴族達とは滅多に顔を合わせなかった。ディセンダーとして表舞台に立たされる時でさえ、サレが側にいる。
したがって、サレの独占欲や支配欲を向けられるのはわたしなのだ。己のものを、まるで元は己のものだと言わんばかりに返せと言われ、相当苛立ったに違いない。

「アドリビトムも、ディセンダーである君が欲しいんだろうね。…ふん、偽善者ぶっちゃって」

そのお姫様の意図はわからないが、全く迷惑なことをしてくれたと思う。
直りかけていた彼の機嫌が、再び悪くなっていくのを感じる。全く厄介なことをしてくれたと、顔も知らないお姫様を恨んだ。
優しく髪を撫でる手に不穏な気配を感じて、小さく息を零す。

「何よりも腹立たしいのはあの男だ。罪人の分際で、僕の周りをうろちょろと…」
「…サレ…?」
「身の程知らずもいいところだ。ねえ、ナマエもそう思うだろう?」
「はい…」

身の程知らずと言うか、怖いもの知らず、と言うべきなのかもしれない。
わたしの知らぬ間に、わたしを中心として様々なことが起きている。煩わしいと思いはすれど、それ以外に何かを感じたりはしなかった。
髪を撫でていた手が、ふと止まった。見た目だけ甘えるように、大人しくサレの胸に寄せていた顔を上げる。
面白いことを思い付いたと、サレはそう瞳を輝かせていた。

「…そうだ。いいことを思い付いたよ、ナマエ」
「はい」
「助けようとしている君に殺されるって、すごい皮肉だよね」

この世界に来て、この人のものになって。わたしは数えきれないほどのことを、彼から教わった。
紅茶の淹れ方に始まり、魔術の使い方。そして、人の殺し方。全て、全てサレに教わった。
初めて人を殺したのは、この世界に来たばかりの頃。殺さなければ殺される。死にたくなかった。ただ、それだけで魔術を使った。

「ナマエ、」

サレが返事を促した。
預けたままの体を静かに起こし、彼を見下ろす。その、深海のように光のない瞳には、確かに楽しげな色だけがあった。
促されるまま、躊躇いを隠して口を開く。

「…サレが、望むなら」

満足そうに、けれどつまらなさそうに頷いたサレの指先が、わたしのスカートと太股の境目を撫でる。その手袋が擦れる感覚に眉を寄せながら、適当に靴を放ってベッドに乗り上げた。
いつの間にか窓の外には点々と星が輝き始めている。カーテンを閉め忘れた代わりにベッドから垂れる天蓋に手を伸ばしたが、サレに制された。

「そう遠くない未来、きっと改めてアドリビトムと顔を合わせることもあるかもしれない」
「はい」
「奴ら、きっと驚くだろうねえ。君がこんなに変わってしまって」
「…はい」
「そして言うんだ。こちらへおいで、って」

挑発的な視線。誘うような仕草。理性を震わす色香に惑わされるまま、その体に跨がる。

「ねえ、彼らの元に行きたい?」

差し出された指先を柔らかく噛み、首を引いて手袋を引き抜く。

「いいえ」

銜えた手袋を放り、静かに首を横に振る。
一度だけ、瞼を閉じる。心の奥に繋いだ、昔のわたしが泣いていた。生きるために跪いたことを後悔してはいないけれど、でも。一瞬だけ描いてしまった都合のいい夢に、爪を立てた。

「わたしは、サレしか知りませんから」

サレはわたしの全てだ。
彼は無垢だったわたしの全てを奪い、全てを与えた。だから、わたしの全てはサレのものなのだ。サレしか知らないし、サレ以外を知る気もない。来るはずもないいつかを夢見て、この部屋から出ようともせず彼を待つのだ。全ては、一人ぼっちのわたしがこの異世界で生きていくために。
血の匂いが染み付いたこの部屋だけが、わたしに許された居場所なのだ。

瞼を押し上げて見れば、サレは今度こそ満足そうに笑う。
安堵に睫毛を震わせ、未だに慣れることのない手付きでサレのベルトに手をかけた。



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