今でこそ異世界でディセンダーなんて呼ばれているわたしだって、地球ではただの女子高生だ。
制服のスカートは一回か二回くらい折って短くしていたし、ニーソックスだって履くこともある。

けれど、メイド服なんて着ようと思ったことすらない。


「…サイン、ください」

今はちょうど、おやつの時間。
バンエルティア号の食堂では、クレアさんお手製のピーチパイが振る舞われている。
その甘い匂いに包まれた食堂の中では、異様な空気が漂っていた。

「……ええと、ナマエさん、その服、は…?」

ミントさんが困惑した様子を隠し切れずに、手にしていたフォークを落とした。
彼女の前に座るシングさんは、きらきらとその瞳を輝かせる。やめて、そんな目で見ないで。

「ナマエ!うん、すごく可愛いよ!」
「シングさんやめて何も言わないでとりあえずサインください」

とても元気の良い返事をくれたシングさんは、すらすらと差し出した紙に名前を書いてくれた。
もう用はないとばかりに踵を返し、ミントさんに紙を差し出す。

「サインください」
「あ、あの……」
「何も聞かないでサインください」
「わ、わかりました…」

わたしの死んだような目に何かを察してくれたのか、ミントさんは戸惑いながらもサインしてくれた。
そんなわたし達を横目に無言でピーチパイを食べていたヴェイグさんからも丁寧なサインを頂き、颯爽と食堂を後にしようとしたわたしの背中に、フォローの声がかかる。

「で、でも、とてもお似合いですよ。可愛らしいですね」
「まるで本当のメイドさんみたいだよね」
「ええ。ナマエさんは給仕もされていますから、今度からはそれを着ては如何でしょう」
「うん、それは良いアイデアだ!」
「…動きにくそうな服だな」
「もういいです黙ってください喋らないでください何このデジャヴュ!」

ギリギリまでのミニスカートも、白いガーターベルトとニーソックスも、フリルがたくさんのエプロンも、ツインテールにヘッドドレスだって、わたしが好きで着ているわけじゃないことを全力で主張したい。
走り去ろうとしたら地味にヒールの高い靴が邪魔をした。このやろう。





気を取り直して、再びサイン集めを再開する。
さっきの三人でもう半分は越えた。依頼に出ている人は夕方頃になってしまうかもしれない。どうしよう、勢い余ってうっかり鬱になりそうだ。
歩く度にひらひらと揺れるメイド服のスカートの裾を気にしながら、死んだ目で船内を徘徊する。
ふと、曲がり角の向こうから話し声がした。こちらに向かって来ているらしいその声は、エステルさんとナタリアさんのものだ。この二人のサインは、まだ貰っていない。
笑いながら角を曲がって来た彼女達に、紙を突き付けた。

「サインください」

うん、呆然とされるのも慣れた。
もはや重苦しい沈黙すら怖くない。何だかわたしたった数時間程度で大分心が鍛えられたような気がする。とっくに思考することを放棄した頭の隅でそう考えていると、エステルさんの手が伸びて来る。ぼんやりとその手を追っていると、その手はおもむろに紙を掴み、放り捨てた。
は、と音にならない驚きの声を上げたわたしの手を、エステルさんがそっと握りしめる。

「ナマエ、お願いがあるんです」
「え、…はい?」
「一回だけ、一回だけで良いんです!エステリーゼ様って、呼んでくれませんか…?」

ああ、なるほど。
実はレイヴンさんとゼロスさんからサインを頂く時に、ご主人様呼びを交換条件として要求されたのだ。
すでに度重なる心労で羞恥心すらなくなっていたわたしは、自分が作れる最大限の笑顔で、サインください、ご主人様。と言ってやった。
ちょっと形は違うけど、要はそういうこと。そう思い、笑顔を作る。まあ少しくらいはサービスしようかな、エステルさんだし。
そう気まぐれを起こしたことを、わたしは後にとてつもなく後悔する。

「今日のおやつはピーチパイですよ、エステリーゼ様」

何かメイドっぽいセリフが思い付かなかった。
まあこれでいいだろう、そう思い紙を拾おうとしたわたしは、ふと気付いた。
エステルさんに握られたままの手が、まるで痙攣の如く異常に震えていることに。

「か、可愛いですー!」
「ぐはっ」

それに驚く暇もなく、エステルさんからタックル改め、ハグをされた。
まるでぬいぐるみのように頬擦りされ、ぎゅう、と強く抱きしめられる。何か微妙に首にきめられてる気がするのは、わたしの勘違いだろうか。

「可愛いです可愛いです可愛いです!!ナマエより可愛いメイドは見たことありません!ナマエ、もう一回!もう一回だけお願いします!」
「ちょ、おっ、落ちついてください、エステリーゼ様」
「きゃー!可愛い、幸せです…!」

何だかよくわからないけど、エステルさん的にストライクだったらしい。お世辞はありがたく受け止めて、それよりも早くサインがほしいなあ。
そんなことを考えていると、べりっ、と音を立てて、エステルさんが剥がされた。

「エステルばっかりずるいですわ!」
「ああっ、ナマエ…!ナタリア、酷いです!」
「酷くありません!エステルこそ、ナマエを独占してずるいですわ!ナマエ!私にはナタリア姫、で!」

あなたもですか。
もはや何も言うまい。いや、言わなければならないけれど。
引きつる頬の筋肉を震わせながら、再びきれいに笑顔を浮かべる。

「喧嘩は駄目ですよ、ナタリア姫」

だから早くサインを以下略。

「…っ、ナマエ…!」
「ひ、一人占めは駄目です!私も!」
「い、痛い…」

ナタリアさんに抱きつかれ、再びエステルさんに抱きつかれ。いくら女の子だからって痛いというか痛いというか、うん、痛い。
これはどうしたものかと思い悩み始めたわたしの手を、怖いくらい真剣な顔でナタリアさんが掴んだ。

「…ナマエ、」
「な、何ですか?」
「ライマ国に来る気はありません?」
「……………はい?」

首を傾げたわたしとは対照的に、エステルさんははっとした顔をしてナタリアさんを見た。

「だっ、駄目です!ナマエは私と一緒にガルバンゾ国に帰るんです!」
「いいえ、是非我がライマ国に!」
「いやわたし地球に帰る予定が」
「ナマエはガルバンゾ国の方がいいに決まってます!ナタリア、諦めてください!」
「エステルの方こそ諦めてくださいな!ナマエはライマ国に来るに決まっていますわ!」

このお姫様達、聞いちゃいねえ。
もはや諦めを通り越し、悟りの境地だ。何だかよくわからないけど、とりあえず誰か助けて。
左右に話を聞いてくれないお姫様達を張り付けたまま深々とため息を零せば、そんなわたしの願いが通じたのか、ついさっき二人がやって来た廊下の角の向こうから、再び声が聞こえた。
天の助けとばかりに振り返る。しかし、世間はそんなに甘くなかった。

「何だ、部屋に帰って来ないと思ったら、こんな所にいたのか」
「エステリーゼ様、こんな所で何を…?」
「ユーリ!フレン!」
「お前が帰って来ねえからアッシュの奴がイライラして鬱陶しいんだよ、早く何とかしろっての」
「素直に心配したって言えばいいのに、全く」
「ルーク!ガイ!」

即座に顔を戻す。
援軍が来たと顔を輝かせたお姫様達とは反対に、わたしは地を這うような深いため息を零した。
いや、違う。まだ彼らからもサインを貰ってないのだから、いつかは会わなければいけなかったんだ。要は遅いか早いか、それだけだ。暑さ寒さも彼岸まで、喉元を過ぎれば何もわかりやしない。
彼らに駆け寄るお姫様達に引きずられながら、彼らの前に死んだ目のまま踊り出た。

「ユーリもフレンも、ナマエは私と一緒にガルバンゾに来るべきだと思いますよね!?」
「ルーク、ガイ!私決めましたのよ、ナマエをライマ国に連れて帰りますわ!」

四人揃って、わたしの姿を見て目を剥いた。信じられないものを見るかのような目だ。大丈夫、わたしも今だにこの状況が信じられていない。
そんな四人が石のように固まったまま反応してくれないことに焦れたらしいエステルさんは、わたしの肩を揺らした。

「ナマエ、ユーリ様、フレン様って呼んであげてください!」
「…サインください、ユーリ様、フレン様」

ぴくり、と震えたのは、ユーリさん。
ぱあっ、と顔を輝かせてわたしの両手を取ったのは、フレンさんだ。
何事だと固まるわたしの両手を優しく包み、フレンさんは淡く頬を染め、はにかんだような笑顔を浮かべた。

「婚姻届なら喜んで」
「は?」
「おいコラ待て」

ユーリさんの手の骨が、軋む音を立てる。対して彼に腕を掴まれたフレンさんは、甲冑のおかげで全く平気そうだ。
さっきの蕩けるような笑顔をさっと消したフレンさんは、冷ややかにユーリさんを睨みつける。

「何だい、ユーリ。邪魔はしないでくれ」
「邪魔したくもなるわ。…つーかお前、何でそんな格好してんだよ」
「聞かないでください」
「ああ、分かった。君がそんな顔をするなら、僕は何も聞かないよ」
「どうせ罰ゲームか何かだろうけどな」

正しく図星である。
ユーリさんを睨みつければ、何故かふいと視線を逸らされた。
そんなに直視に耐えませんか。ええ、知ってますとも。

「ナマエ、是非ガルバンゾ国に来てください!」
「僕からもお願いだ、ナマエ。…ギルドの仕事は危険ばかりで、君のような子が働くには大変だと知っているだろう?」
「…ま、ガルバンゾの城なら俺も顔見れるし、いいんじゃねえの」

だからわたしは地球に以下略。

「お待ちなさい!ナマエはライマ国に来るに決まっていますわ!ナマエ、ルークとガイにも様付けで!」
「………サイン、ください。ルーク様、ガイ様」

いい加減、本当にサインをください。
ナタリアさんの手によって強引にエステルさん達から引き剥がされ、ルークさんとガイさんの前に突き出される。もはや笑顔も作れやしない。
顔を真っ赤にしてわたしを指差すルークさんの隣で、ガイさんが居心地が悪そうに頭をかいた。

「な、何かくすぐったいな…」
「ばっ、おま…っ、な、何て格好して…!」
「罰ゲームだとしても、本当に可愛いよ。なあ、ルークもこういうメイドさんにお世話してもらいたいだろ?」
「う、うるせえ!」

まるで兄弟のようなやり取りは微笑ましい。けれど、それに付き合えるほど心の余裕はなかった。

「ナマエ、是非ライマ国に来てくださいな!」
「ライマ国はガルバンゾ国に比べれば小さいが、いい国だよ。君なら大歓迎さ、主にルークがね」
「バッカ、もう黙れっつーの!……お前みてーに危なっかしいメイド、ガルバンゾじゃ扱いきれねえだろうからな!か、勘違いすんなよ!」

だからわたしは以下略。

「駄目です駄目です許しません!ナマエはガルバンゾに来るんです!」
「いいえ、ナマエはライマ国に来るに決まっていますわ!」
「ナマエはガルバンゾ国が貰い受けるよ」
「そういうこった、さっさと諦めな」
「穏やかじゃないな…」
「はあ?何だよ、文句あんのか?」

ガルバンゾ国とライマ国の間で睨み合いが始まってしまった。わたしはそこでようやく我に返る。
彼女達はお姫様だ。いくらこんな馬鹿げた理由だとは言え、王女としてのプライドとか体裁とか、そういった諸々のことのせいで戦争とか、そんなことにならない、よね。
一気に青ざめ、睨み合う六人の間に入ろうとしたその時だ。

「随分と、楽しそうな話じゃない」

品の良い靴音を立てて、いつの間にか、アンジュさんがわたしの後ろにいた。驚いて彼女の名前を呼んだわたしに構わず、アンジュさんはすぐ側に落ちた紙を拾い上げた。
彼女はそのままポケットから取り出したペンで、さらさらと軽やかに紙に何かを書く。
そしてにっこりと、とてもいい笑顔で、大きく自分のサインが書かれた紙を見せた。

「ナマエはアドリビトムリーダーの、この私専属です。ガルバンゾにもライマにも、お嫁に出すつもりはありませんから」

これはそういう話じゃない。





ちなみに、リーダーのアンジュさんからサインと笑顔と言う名の脅しのおかげでイリアさんの同意を貰い、わたしの罰ゲームはそこで終了した。

「イリアさん、このメイド服は…」
「それはあんたにあげるわよ。あんたのために、このあたしが選んであげたんだから。た、大切にしなさいよね!」
「え、いらないです」

メイド服はクローゼットの奥深くに封印された。



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