重い体を引きずるようにバルコニーから会場内へと戻る。気付かない内に夜風で冷えていた指先で胸元を押さえ、行き交う人々を見回した。
エステルさんはまだアレクセイさんと一緒にいるだろうか。ふらふらと、覚束ない足取りですぐ側の壁に寄りかかる。瞼の裏にこびりついた血の色がどうしてもどうしても消えなくて、それでもそれを振り切るように首を振って人の波に飛び込んだ。
アレクセイさんは目立つ人だからすぐにわかるはずだが、こう人が多いとさすがに探しにくい。声をかけてくる男女をかわしながら、ぶつかりそうになる人を避けながら、逸る足で広間を駆ける。アレクセイさんは長身だからと上を見すぎていたのか、ヒールに慣れない足が一瞬縺れた。
倒れる。そう思い小さく悲鳴を上げた瞬間、倒れていくわたしの体が急な圧迫感と共に引き戻される。剥き出しの肩甲骨に固いものが当たり小さく咳込めば、耳に、優しく吐息が触れた。

「大丈夫ですか?」

変な悲鳴を上げかけた口を押さえる。鼓膜に直接囁くような柔らかな声にぞわり、と背中に何かが這ったのだ。何だこれ、何だこれ!
お腹に回った腕が転びそうなわたしを引き寄せてくれたのだろう。耳元に感じた吐息と、背中に触れる温もりに頭が沸騰する。石のように固まったわたしを不審に思ったのか、くるりと体を反転させられた。
腰に回された腕と、眼前で瞬いた緑の宝石。それを縁取る金色の睫毛がふるりと震え、優しく細められた。

「よかった、大丈夫そうですね」

心の底からそう思っていると錯覚しそうな、温かさに満ちた声。
丁寧に撫で付けられた柔らかな金髪、宝石のような緑色の瞳。甘やかさを残した優しい美貌と、それを際立たせるような豪奢な衣装。清廉な人だと思った。煌びやかな衣装を纏い、その腰に剣を下げていようと、まるで彼女のように。
ざわざわとさざめく広間と肌に突き刺さる視線。ヨーデル殿下よ、誰かがそう囁いた。我に返れたのは、それのおかげだろう。光の速さで距離を取り、勢いよく頭を下げた。

「すっ、すみません!ありがとうございました!」
「いいえ。お怪我がないようで何よりです、ナマエさん」
「えっ、」

何で、わたしの名前。
戸惑うわたしはよほど面白い顔をしていたのか、清廉な人は小さく笑う。

「事情はリチャードから聞きました。いとこがお世話になっています」
「お、お世話になったのはわたしですが…」
「…ああ、そうでしたね」

どこか含みのある笑顔で、その人は深く頷いた。
ヨーデル殿下。エステルさんとリチャード殿下のいとこで、彼らと同じくガルバンゾ国の王位継承権を持つ人。纏う雰囲気はリチャード殿下よりもエステルさんに似ているだろうか。
ふと、さざめきの向こうから微かに聞こえてきた音楽に顔を上げる。緩やかなテンポのそれはわたしでさえわかる優しいワルツだった。同じように顔を上げたヨーデル殿下は、何かを考えるようにしながらわたしに問いかけた。

「…ナマエさんは、誰かとダンスの約束をしているんですか?」
「い、いえ。わたし、ダンス下手なので…」
「それならちょうどよかった。僕もリチャードと違ってあまり得意じゃないんです。どうでしょう?ダンスが下手な同士、一曲」

そう言って優しく微笑んだまま差し出された手に、わたしの心臓と周りのお嬢様達が同時に悲鳴を上げた。
石より硬く固まるわたしが何の反応も返さないからか、ヨーデル殿下は軽く眉を下げる。

「お嫌でしたか?」
「いいいっ、いえっ!全然!嫌じゃないです!」
「それならよかった。こうして自分から女性を誘うのは初めてなので、何か失礼をしたのかと」

ほっと胸を撫で下ろすヨーデル殿下は本当に安心した様子で、そういった感情をそのまま表現するところはエステルさんによく似ていた。リチャード殿下は纏う雰囲気が彼女とは似ても似つかなくて、どうにも落ちつかなかったのだけど。
差し出された、白い手袋に包まれた手を見る。ルークさんは断れと言っていたし、わたしはあのアッシュさんが思わずフォローしてしまうほどのダンスの下手さなのだ。全力で壁の花をするはずだったのに。
いつまでも悩んでいるわけにはいかなくて、ちらりとヨーデル殿下を見上げる。わたしの視線に気付き、彼は微笑んだ。
煌びやかなシャンデリア。微笑んで手を差し出してくれる王子様。夢のような舞踏会。ぼんやりとした頭でその手を取ろうとして。

ヨーデル殿下の肩の向こう。氷のように凍てついた視線に、貫かれた。

くすんだ色の髪。病的なまでに青白い肌。仄暗い瞳に光はなく、ただヨーデル殿下の肩越しにわたしを見ていた。
サレだ。そう直感して息を呑む。ヨーデル殿下がわたしを呼んだ。前髪に隠されたサレの眉がひそめられる。心臓が、指の先が、あの瞳に凍らされたように動かない。心配そうに顔を曇らせたヨーデル殿下がわたしの肩に手を置いた。手袋越しでもその手は温かく、はっと我に返る。
サレの瞳が細められる。瞬間、広間に一陣の風が吹き抜けた。

「っ危ない!」

小柄な、けれどわたしよりは大きな体を引き寄せる。縺れ合うように床に伏せたわたし達の頭上、嵐がシャンデリアを裂いた。
硝子が割れる音と甲高い悲鳴が広間をつんざく。降り注ぐ痛みを予想してきつく目を閉じてヨーデル殿下を抱きしめるが、それが訪れることはなかった。

「ハヴォックゲイル!」

巻き起こった第二の嵐に髪飾りが舞い上がる。そのまま引き寄せられるかと思いきや、力強い腕がわたし達を引き留めてくれた。
轟音と凄まじい風の中心、言うならば台風の目の中。恐る恐る瞼を押し上げて見れば、知らない男の人が頼りないわたしを繋ぎとめてくれていた。艶やかな金髪を靡かせ、わたしの視線に気付いたその人は唇を緩める。シャンデリアの破片を巻き上げ飛ばした嵐がすっと消えていく。
ふと体中の力を抜き息を漏らせばその大きな手に頭を撫でられ、不覚にも胸がときめいてしまった。


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