わたしの拙い想像力で描いていた舞踏会とは、要は教科書に載っていた中世のそれだ。綺麗な格好をした紳士淑女が行き交い、密やかにさざめく声は、煌々と輝くシャンデリアだけが聞いている。
正直に言おう。本物の舞踏会は正に想像通りだったが、それ以上に、わたしの想像を遥かに越えていた。

「ディノイア家に年頃のご令嬢がいらっしゃったなんて初耳です」
「仕方がありませんわ。こんなに可愛らしいご姉妹なら、アレクセイ様も社交界に出し渋るはずですわよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「あ、ありがとうございます…」

どうにも気恥ずかしくて姉役のエステルさんの背中に隠れれば、温厚そうな年配の夫婦が微笑ましげに笑った。
一礼して彼らから離れれば、また違う人に声をかけられる。先程の夫婦のような人であればエステルさんは足を止め、明らかに下心の見える男の人ならさりげなくクロエさんが追い払う。
そんな二人の見事な連携プレーを繰り返す内に、壁際へ辿り着く。そこまで来てようやく、二人は安堵したように胸を撫で下ろした。

「ふう…。何だか、よく声をかけられますね。ヨーデルとリチャードはまだ見えませんが、心配です…」
「ディノイア家…いや、アレクセイ殿に近付きたいんだろう。覚悟はしていたが、こんなに目立つとは思わなかった」

不安そうにため息を零す二人には悪いが、客観的に言わせていただくと、これはもう二人のせいとしか言いようがない。
片や変装していても花のように愛らしい美少女、片や凛々しい男装の美少女騎士。ディノイア家云々で近付いて来る人が半分、二人目当てで近付いて来る人半分、と言ったところだろう。
とばっちりを食らう形でわたしまで気疲れしてしまいそうだが、まだ舞踏会は始まったばかりだ。ターゲットの殿下達も見えていないし、ここで二人に疲れられては困る。

「二人共、少し休んでてください。そうだ、喉は大丈夫ですか?何か貰って来ますよ」
「すみません、ナマエ。お願いしても大丈夫です?」
「大丈夫です!それくらいは出来ますよ」

何だかんだと、舞踏会に潜入してから何もお役に立っていないのだ。元から二人のサポート役なのだから、それくらいはしなければ。
二人から離れ、ナタリアさんから教えられた通り軽くドレスの裾を持って歩く。これでも頑張ってはいるが、淑やかさは欠片もないだろう。転ばないように気を付けるのに精一杯だ。

「あの、飲み物をいただけますか?」
「はい。お一つでよろしいですか?」
「…あっ、す、すみません。ちょっと待ってください」

休憩しながらも警戒に忙しいクロエさんに聞いて来るのを忘れていた。不思議そうに首を傾げるボーイさんに慌てながら二人を見て、思わず目を見張る。
ほんのちょっと、時間にしても一分は離れていない。それなのに、二人はもう男の人達に囲まれていた。一人ずつではクロエさんに追い払われるのを理解して、何人かで声をかけたのだろう。エステルさんはもちろん、あのクロエさんですら追い払いきれずに困り顔だ。
慌ててボーイさんに頭を下げて戻ろうとしたわたしの肩を、強引な優しさで掴まれる。
振り返れば、目の前に差し出されるグラス。目を瞬かせて固まったわたしの手を掠め取り、そのグラスを握らされた。

「レモネードですよ。いかがですか?」

グラスの中で揺らめく、黄金色の液体。姿を消したボーイさんが持っていたレモネードとは、何だか少し違うような気がした。
それを離すわけにもいかず受け取り、困惑しながらわたしの手を取る男の人を見上げる。赤みのかかった茶色の髪の、腰に一降りの剣を差す端正な顔の男の人だった。

「初めまして、ディノイアのお嬢様」
「は、初めまして…。あの、わたし……」
「わかっています、姉君をお助けしたいのでしょう?これでも、私は彼女に群がる男達より身分は上です。私が声をかければ、蜘蛛の子を散らすようにいなくなることでしょう。いくらあなたがディノイア家のご令嬢だとは言え、今あなたが近付いたら姉君のように身動きが出来なくなるだけですよ」

まるでわたしが口を開くことを許さないかのような、饒舌な語り。
失礼を承知で眉を寄せ、男の人を値踏みするように観察する。確かに本人の言う通り、身に纏う服や装飾品から考えるに相当身分は高そうだ。腰に差した剣はお世辞にも使われた感じはなく、恐らくただの飾りでしかないのだろう。
警戒心を解くことなく、要は何が言いたいのだとその人を見る。

「そんなに警戒しないでください。私はただ、美しい女性とグラスを合わせたいだけです」
「…つまり?」
「一杯だけでいい。お付き合いくだされば、それだけで」

この、広間に溢れる煌びやかな人混みの中。アレクセイさんを見付けられるかと言われれば、正直不可能に近い。あの人はディノイア家の当主でもあり、騎士団長でもあるのだ。会場に入ってすぐに、仕事があると忙しなく別れたのだから。
まだ殿下達の姿も見ていない。このままじゃ、果たしてエステルさんが二人の姿を見られるかどうかすら怪しい。それならば、レモネードの一杯くらい付き合って助けてもらおうか。
グラスを持つ手を、男の人に差し出す。男の人は嬉しそうに微笑み、自分のグラスを差し出した。

「それでは、あなたと出会えた奇跡を祝して」

乾杯、と、合わさったグラスが軽い音を立てる。揺れる黄金色。顔に近付ければ、蕩けそうに甘い匂いが鼻に張り付いた。
両手で持ったグラスに口をつけ、それを徐々に傾けて、そして。

剣を抜く時の、独特の空気を裂く音が聞こえた。最早聞き慣れてしまった音に肌が粟立ち、きいん、と何かを弾く音に目を見開く。

「なっ、何だ!?」
「まあ…!」
「リチャード殿下!」

一瞬の静寂のあと、会場内は騒がしくなる。そのざわめきの中心にいるのは、すぐ近くにいた青年だった。
リチャード殿下、と呼ばれたその人は、佇まいを乱すことなく抜いた剣を鞘に収める。手慣れた動作と使い込まれ刃毀れもないその剣は、戦ったことのある人の剣だった。
剣を収めたその人は、すぐ側に落ちた何かを拾い上げる。手の内のそれを眺め、微かに切れ長の目を細めた。

「リチャード殿下、如何なさいました!?」
「いや、ただの石だ」
「…は、石、ですか?」
「ああ、石だ」

駆け寄って来た親衛隊の騎士に、彼は大真面目な顔でそう言った。
はあ、と呆然と頷いた騎士は、すぐ気を取り直した。

「しかし、石がどうして…」
「会場の外から投げ込まれたようだ。思わず払い落としてしまったが…」

その瞳が、わたしに向いた。

「まるで、そこの彼女の持つグラスを狙っていたようだった」

状況について行けず固まるわたしに、会場中の視線が集まった。正確に言えば、わたしの持つグラスに、だが。
物言わぬ石のように固まったのは、何もその視線だけじゃない。殿下と呼ばれたその人の持つ雰囲気に、圧倒されたのだ。
艶やかな黄金色の髪は緩く編まれて背中に流れ、一目見て高貴な身分だとわかる絢爛たる衣装は、彼の涼やかな美貌を引き立てていた。
高貴な人は、騎士を制してわたしに近付く。その手が伸ばされ、失礼、と一言でわたしの手からグラスを取った。長い睫毛を伏せて、そのグラスに顔を近付ける。そして、柳眉を寄せた。

「薬、か」

びくり。忘れかけていた、わたしにグラスを差し出した男の人が震えた。それすらも咎めるように、リチャード殿下は男の人を睨み付ける。
苦々しげに舌打ちをして、男の人は殿下から視線を逸らす。それが、何よりの証拠だった。

「連れて行け」

いつの間にかやって来ていた騎士達が、リチャード殿下の一言で男の人を捕らえる。悔しげに呻きながら、わたしと殿下を睨み付け、男の人は騎士に引きずられて行った。
彼らが人混みの中に消えていくのを眺め、殿下は従者にグラスと石を預ける。そして、呆気に取られ固まったままのわたしに微笑みかけた。

「災難だったね。大丈夫かい?」
「…はっ、はい!」

飛び上がって返事をするわたしに、殿下は安心したように頷いた。
そして近くのボーイさんから二つグラスを受け取り、片方をわたしに差し出す。

「仕切り直そう。良ければ一杯、付き合ってくれるかな?」

緊張の余り返事も忘れ、こくこくと必死に頷く。震える手で恐々とグラスを受け取れば、涼やかな軽くて上品な音を立ててグラスが合わさった。
傾けたグラスから爽やかなレモンの匂いがして、喉を潤した甘酸っぱい味にほっと息を零した。
そんなわたしを眺め、リチャード殿下は微かに首を傾ける。

「そう言えば、初めて見る顔だね」
「あっ、あ、挨拶が遅れて、申し訳ありません。わたし、ディノイアの…アレクセイおじ様に連れて来ていただきました。ナマエと申します」

たどたどしく、ナタリアさんに教えてもらった通りの自己紹介をする。
ああ、と頷いた殿下は、グラスに残ったレモネードを飲み干した。そのグラスをボーイさんに渡せば、ボーイさんは一礼をして去って行く。

「ナマエさん、」
「は、…い?」

自然な動作で体を引き寄せられる。それに目を見張る暇もなく、頬に何かが触れた。
思わず息を呑んだわたしの耳元で、その人は囁く。

「気を付けて。狙われてるのは、僕達だけじゃないみたいだ」

呆然と、唇が触れた頬と耳を押さえてリチャード殿下の背中を見送る。
さざめきも、宝石の輝きも、甘い匂いも気にならないくらい。

鋭い視線が、わたしに向けられていたことにも気付かないくらい。


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