朝焼けに照らされる甲板に吹き付けた突風が、セルシウスの長い髪を靡かせた。
それと同時に散らばり、溶けて消えていった光の粒。朝焼けの光に反射して輝いていたその粒は、マナの欠片だろう。
それに見惚れるわたしの視線を、どう思ったのだろうか。彼女は涼やかな瞳を、ゆるりと細めた。
「そんな顔をしないで。私はただ、世界樹にあなたを支え、守り、時には導くよう命じられただけなの。あなたが知りたい真実は、私の中にはないわ」
むっとして、セルシウスを睨みつける。けれど、彼女はただ涼やかな瞳を和らげただけだった。
わたしが何を問い掛けても、彼女はこうして自分は何も知らないと言う。まるで言うことを聞かない子供に言い聞かせるように、窘めるように。
それが不愉快で、屈辱だと、思う。
「…どうして、わたしなの」
「それは、私達精霊にも分からないことだわ」
「………どうして、」
あなたは、何も知らないの。
そんな八つ当たりの言葉を、本当に何も知らないであろう彼女にぶつけられるほど、わたしは子供じゃない。
喉の奥で噛み殺し、飲み込みきれずにため息と共に吐き出した。
精霊だって、万能の存在じゃない。そんなこと、わかっているのに。
答えの返ってこない問い掛けを繰り返すことはとても虚しくて、逸る寂しさを加速させる。立てた両膝に顔を埋めたわたしの黒い頭に、抱きしめたままの杖に、彼女は何かを思ったのだろうか。
「ヴェラトローパへ行きなさい」
顔を上げれば、変わらずに涼やかなままの瞳がわたしを見下ろしていた。
ヴェラトローパ、おうむのように繰り返したわたしに、セルシウスは静かに頷き返す。
「天空の宮殿、ヴェラトローパ。ディセンダー、今私が示せる道は、これだけよ」
「…何、それ……」
拗ねたようなわたしの声に、しかし彼女は小さく目を伏せる。まるで、自分の無力を懺悔するかのように。
深くため息を零し、立ち上がる。セルシウスが、密かに瞳を和らげた。
悔し紛れにわざと乱暴にスカートを払い、素早く踵を返す。ああ、やっぱり彼女は気に入らない。わたしはディセンダーなんかじゃないと、何度もそう言ったのに、あくまでもそう呼ぶあなたは、嫌いだ。
「己が何者であろうと、臆することはないわ。あなたは、あなたであることに意味があるの」
負け犬のような背中に、柔らかな視線と、強かな声が突き刺さる。
振り返らずに甲板を後にしたわたしの中に、彼女の言葉だけが、うるさく反響していた。
*
「……こんにちは」
わたしの謹慎はうやむやの内に解けた。アンジュさんが苦い顔で、復帰を了承してくれたからだ。けれど、わたしはここ数日ずっと部屋に引きこもっていた。代わる代わるドア越しに様子を伺いに来てくれた人の中には、彼女の声もあったはず。
リタさんは、唐突に研究室を訪れたわたしの姿を見て、驚いたような表情を浮かべた。
「…ナマエ…。ど、どうしたの?もう…その、大丈夫なの?」
「はい、すみませんでした…。ご迷惑をおかけしましたよね」
「あ、あたしは別に…。迷惑とか、そんなの思ってない、けど……」
リタさんが気まずそうにそう言ってくれることが嬉しくて、同時に申し訳なくなる。
ふたりきりの研究室に、不自然な沈黙が落ちた。
ヴェラトローパについて聞きたかったんだけど、どうしたものか。そわそわと、どこか落ち着かない様子のリタさんを窺いつつ、考える。
しかし意外にもこの沈黙を破ったのは、リタさんの方だった。
「………ねえ、ちょっといい?」
「えっ、…はい、何ですか?」
「…その、わ、わかってるのよ。根拠もない、あたしの勘違いかもしれないって…。でも、聞いてちょうだい。もしかしたら……」
躊躇うように、リタさんの視線が彷徨う。その目の下に刻まれた隈を見つけて、胸が痛んだ。
リタさんは散々迷って、躊躇って、口を開いては閉じるを繰り返す。わたしは根気よく、彼女の言葉を待った。
ようやく意を決した彼女が、わたしを見る。しかし突然開いた研究室のドアが、彼女の言葉を阻んだ。
「あら、ナマエじゃないの。ちょうど良かった、これからあんたの部屋に押しかけようとしてた所よ」
「お、押しかけるのはやめてください。…でも、すみませんでした」
「別にいいわよ。それより、話があるから聞いてちょうだい」
ハロルドさんがわたしを手招く。リタさんを窺えば、難しそうに眉を寄せて、首を振った。今はいい、と言うことだろう。
ハロルドさんに手招きされるまま、椅子に座る。
「ちょっと色々考えてみたんだけど、どうやらこれが正解みたいなのよ」
「…その本は?」
「ここ数十年の世界樹の様子が記録された本よ。さすが博物学者のウィルよね、正確に記録されているわ」
ハロルドさんは本を机の上に置き、その革の表紙を爪で叩いた。
「この記録によると、世界樹はここ数十年で大分弱ってきていることがわかるの」
「世界樹が、弱ってきてる…?」
「疲弊してると言ってもいいわ。そして今現在の世界樹は、とある日を境に沈黙している」
栞が挟んであった場所を開いたハロルドさんは、興味深げに覗き込んできたリタさんと文字がわからず首を傾げたわたしに指で示す。
「この日。ナマエ、覚えてる?」
「す、すみません。まだ日付とかは習ってないです…」
「あら、そうなの?それじゃ、リタ」
「もちろん覚えてるわ。世界樹が何の予兆もなく光を発した日でしょ」
ガルバンゾの研究機関は大騒ぎだったわ、と当時を思い出したらしいリタさんがため息を吐く。
満足そうに頷いたハロルドさんは、しかしふと、わたしに向き合う。
「これもウィルから聞いたんだけど、この日に、あんたはこのルミナシアに落ちて来たのよ」
「…え、うそ」
「本当。そしてこの日を境に、世界樹は沈黙し、星晶を巡る争いは激化した…」
そう締め括ったハロルドさんは、もう用はないとばかりに、本を閉じた。
「セルシウスが言ってたでしょ?この世界に残された最後の希望、って。それがずっと気になってて、調べてみたの」
「で、でも、ナマエは異世界の人間よ。それじゃまるで、本当にディセンダーみたい…」
「っ、違います!」
「ええ、違うわ」
思わず声を荒げたわたしに、ハロルドさんは肯定するように頷いた。
呆気に取られるわたしとリタさんに構わず、彼女は腕を組む。
「ナマエは異世界の人間なのに、ディセンダーの力を持っている。この矛盾を説明するには、全く別の力が作用していると考えるのが妥当ね。そして偶然にも、ナマエという存在を介して、それが重なってしまった…」
「…要は、ナマエがディセンダーの力を持っているのは、ただの偶然ってこと…?」
「ルミナシアの世界樹は疲弊している。もしかしたら、伝説の通りにディセンダーを生み出す力すら残ってなかったのかもしれないわ。だから、せめてディセンダーの力だけでも、誰かに与えようとした。…偶然なのか、必然なのか、どうしてそれにナマエが選ばれたのかはわからないけど」
物憂げなため息は、いつも自信に満ち溢れている彼女らしくなかった。
リタさんが、気遣わしげにわたしを見る。その視線に応えられるくらいの余裕も、今のわたしにはなかった。
つまり、わたしをこの世界に呼んだのは、世界樹じゃはない。けれど世界樹は、わたしに力を与えた。
どうして、わたしなの。込み上げた疑問の答えが返って来ないことくらいは、わかっていた。
わたしは、ディセンダーじゃない。けれど、ディセンダーの力を持っていたことは、密かに世界樹に感謝した。わたしのこの手が届く人は、わたしが救えたからだ。
例えそれが、偶然で得た力であっても。
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