窓の外から覗く月明かりに透かして見る。
薄い白を溶かしたような色をした、涙の形をした石。どこかで見たような気がして、何かが引っかかって、こうして眠ることも出来ずにいた。
つい最近のことだったような気がする。何だったっけなあ、とベッドの中で悶々と過ごす。そうしている内に、喉の渇きに気付いた。
どうせ眠れないし、食堂でお茶でも淹れて来ようかな。ため息と共に起き上がり、パジャマの上に適当なカーディガンを羽織って物音を立てないように部屋を出た。
現在この船が停泊している港がある大陸は、冬の季節らしい。外に出れば途端に白い息が上がり、指先を突き刺す冷たい空気が痛い。体を震わせながら、早く食堂に行こうとホールを横切ろうとした、その時だ。
「ディセンダー、」
「うわあっ!!」
静かなホールに反響するわたしの悲鳴。それ以上にうるさく、わたしの体内でばくばくと言う心臓の音が響いていた。
軽く泣きそうになりながら振り返れば、わたしの悲鳴など何処吹く風とばかりに涼しげな顔のセルシウスがいた。
「なっ、何なの!?いきなりびっくりさせないでってば!」
「驚かせるつもりはなかったのだけれど…。ごめんなさい」
「…はあ、もう…。それより、どうしたの?」
セルシウスは氷の精霊だからか、とにかく涼しい場所を好む。船の中にはなかなか入って来ようとしない彼女が、いくら夜とは言え、船内にいるなんて。
心なしか彼女の側にいるからか、ただでさえ冷たい空気が更に冷たくなった気がする。身を震わせながら、刺々しい態度で尋ねる。彼女が嫌いだと言う、あからさまな意思表示だ。
「災厄の気配がするわ」
「は?災厄?」
「ええ、あなた達がラザリスと呼ぶ存在よ」
「災厄…って、嘘、ラザリス!?」
セルシウスは静かに頷いた。視線で示したのは、船の外。慌てて船を飛び出し、甲板へ駆け出したわたしを追い越したセルシウスが、縁に立つ。
縁から身を乗り出したわたしは、彼女の指が示した方向を見て悲鳴を上げた。
「…赤い煙…!」
「彼から災厄の気配がする。恐らく、あの赤い煙に犯されているのね」
「願いを叶えてもらったんだ、きっと…」
暗い港で踞る男の人は、苦しそうに呻いていた。その彼からじわりじわりと、赤い煙が吹き出している。あの暁の従者の人達が、生物変化を起こした時のように。
急いで梯子を下ろそうとしたけれど、焦りのせいか、それともこの寒さのせいか、手が震えて思うように動かない。
いつの間にか、羽織っていただけで袖を通していなかったカーディガンが側に落ちている。それを拾い上げるような音が、聞こえた。
「ナマエ!」
「えっ、カノンノ…?」
「もう!部屋にいないと思ったら、こんな深夜に何してるの?未成年は夜の外出は禁止されているでしょ?」
怒ったような、心配したような顔のカノンノが、梯子を下ろそうと奮闘するわたしにカーディガンを羽織らせた。カノンノもわたしと同じようにパジャマ姿で、カーディガンも着ていない。
遠くから聞こえる呻き声が、か細くなっていく。急かされるように、止めようとするカノンノに首を振った。
「赤い煙で苦しんでる人が、すぐそこにいるの!早く助けなきゃ…!」
カノンノは目を瞬かせ、けれど船の下から聞こえる声に気付いたらしい。
縁から身を乗り出して下を覗いた彼女は、顔色を変えた。
わたしはそんなカノンノを気遣う余裕もなく、梯子を下ろそうとする。けれど、焦りと寒さはわたしの手をぎこちなくさせた。
「駄目、下ろせない…!お願いカノンノ、手伝って!」
「…わかった!」
過ごした時間が長いせいか、やっぱりカノンノの方が手慣れている。カノンノはわたしとは比べものにならないくらいに手際よく梯子を下ろすと、わたしを促した。
わたしが港に足を着けると同時に、ふわりとセルシウスが舞い降りる。
それに構わず、塗り潰したように黒い闇の中に、不気味に輝く赤い煙の中に、手を伸ばした。
「ナマエ!」
「セルシウス、カノンノを押さえて!」
今にも駆け寄って来そうだったカノンノを、セルシウスが押さえる。
それを確認して、赤い煙に飛び込んだ。
ちくり、と一瞬だけ痛みが走る。けれど、気のせいで片付けられる程度の痛みだった。
男の人の首元に触れられた。ひんやりと冷たく、もう変化を起こしているみたいだ。触れた場所から、黄色い光が零れる。
ふと、気付いた。この光は、こんなにも弱々しいものだったっけ。こちらも気のせいで片付けられる程度だけど、でも。
そう考えている内に、光と同時に赤い煙が消えていく。相変わらずこの、触れた場所から何かが体の内に流れ込んでくるような感覚だけは、慣れない。込み上げる嘔吐感に口元を押さえ、くらくらとする頭を抱えて座り込む。
「ナマエ!ナマエっ!大丈夫!?」
「う、うん…」
泣きそうな顔のカノンノを受け止め、倒れ込んだ男の人を見る。触れた首元も、あの宝石のような冷たい皮膚じゃない。それに安心して息を吐いたわたしとは対照的に、セルシウスが注意深く男の人の様子を観察する。
「もう、大丈夫そうね」
男の人は意識をなくしているらしい。安らかな息に安堵する。
それを喜ぶわたし達の側では、セルシウスは何故か腑に落ちないという顔をして、わたしと男の人を見比べていた。
「セルシウス、どうかした?」
「…いいえ、何でもないわ」
セルシウスは静かに首を横に振った。その横顔には、さっき見た戸惑いのような色は見えない。
気のせいだったのだろうと一人で納得して、それよりも、とセルシウスに問い掛けた。
「ラザリスが災厄って、どういうことなの?」
「この世界の奥深く、星晶によって封じ込められていた災厄。それが、あなた達がラザリスと呼ぶ存在よ」
カノンノを窺えば、知らないと首を振られた。しまった、セルシウスの言葉を柔らかく翻訳して教えてくれる人がいなかった。
「ええと…ラザリスが災厄って、昔に何かあったの?」
「何もないわ。私達精霊は、あれが解き放たれた時、この世界に恐ろしい災厄が訪れるということだけを知っている」
ラザリスが齎した奇跡と言う名の悪夢は、確かに災厄と呼んでもいい。
つまり災厄改めラザリスは、星晶によってこのルミナシアの奥深くに封じ込められていた。
しかし、人間達が星晶の搾取を始めたことによりラザリスを封じることが出来なくなり、ラザリスが赤い煙として姿を現した。結果、世界樹は疲弊してしまい、偶然にも、わたしにディセンダーの力を与えた。
「そんなことより、ディセンダー。彼はどうするの?」
「え、ああ…。目を覚まさなきゃ家もわからないし、とりあえずしばらく様子を見るしかないね」
目を覚ます気配もない男の人に、カーディガンをかける。より一層寒さが身に突き刺さったような気がしたけど、でも、わたしと同じようにパジャマ姿のカノンノも、寒いはず。
一人寒そうな気配も見せないセルシウスを見上げた。
「セルシウス、カノンノと一緒に船に戻ってくれる?わたしは、この人が目を覚ますまでここにいるから」
「ええ、分かったわ。カノンノを船まで送り届けたら、戻って来るわね」
「別にいいよ、セルシウスも船に戻って」
「駄目よ。私は、世界樹からあなたを守るように言われて…」
「わ、私も残るよ!」
カノンノは必死そうな顔で寒くないと主張する。そう言われても、明らかに寒そうなのに。
そう思っていると、カノンノがわたしに抱きついてくる。顔を見れば、これなら寒くないでしょと言っている。確かに寒くはないけど、カノンノも言っていたように、夜の未成年の外出は禁止されているから、バレない内にカノンノだけでも船に帰したかったんだけど。
「ディセンダー、足元に何か」
「え?…これって、」
「食堂に落ちてた石、だよね」
「わたし、持って来てないはずなんだけど…」
地面にきらきらと輝いているそれを拾い上げる。昼間も見た涙の形をした石だ。しかも、たくさん散らばっている。
食堂で拾ったやつは、部屋を出た時に机に置いて来たはず。わたしと同じように首を傾げるカノンノは知らないだけで、もしかしてルミナシアでは結構メジャーな形の石なのかもしれない。
拾い集めようと伸ばした手は、セルシウスが静かに、力強く取った。
「待って、」
「え、何?」
「それは災厄の欠片よ。恐らく、彼の涙だわ」
「…涙?」
手の中の石を見る。
つまり、これは、苦しみに呻いていたこの人の涙が、形になったもの。
わたし達人間の涙は水だけど、もしかしたら、生物変化を起こした人の涙は、こうして形になって落ちるのかもしれない。見た目からしてあんなにも異なったのだ、もしかしたら、有り得るかも。
「浄化しきれなかったのね。ディセンダー、小さな欠片とは言え、残しておくのは危険だわ」
「う、うん、わかった。カノンノ、一応離れて」
カノンノは小さく頷いて距離を取った。セルシウスが彼女を庇うのを確認してから、その涙達をかき集める。手の平で鈍く輝くそれを握りしめた。
いつもは何も考える暇もなく手を伸ばしているから、こうして自分の意志であの力を出そうとするのは初めてだ。
身体の内から、光が溢れてくる感覚。
緩く手を開けば、涙達は空気に溶けるように赤い煙となる。
わたしの手から涙を溶かした光は、さっき感じた弱々しさなど微塵も感じさせなかった。やっぱりわたしの気のせいだったのだろう。
安堵した、その時だ。
「君達、そこで何をしている!」
鋭い声だった。
カノンノの小さな悲鳴に開いた手が大きく震え、光は瞬いては収束していく。その指の隙間から、赤い煙が零れ出した。
しまった、と思ったその瞬間、指の隙間から溢れた赤い煙は、消えた。
違う、そうじゃない。あれは消えたんじゃない。
消えたように見えた。でも、あれは。
「ナマエ!」
振り向きも出来ないわたしに、カノンノが悲鳴を上げる。足音がこちらに近付いて来ていることだけは、理解出来た。
赤い煙はまるで吸い込まれるように、わたしの中へ消えていった。
今まで何となく感じていた、何かがわたしの中に入ってくる感覚。吐き気がするようなそれを味わいながら、貫くような光の中の真実を、理解することが出来ずにいた。
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