橙と藍が混じる空の彼方を眺める。
遠くにあるはずの世界樹は変わらず、その存在感を示していた。
手に持つ杖は、わたしがルミナシアに来たばかりの頃、彼女から渡されたものだ。今はもう別の鉄で出来た杖を使っているが、何となく、古びた木で出来た杖をクローゼットから引っ張り出してきた。甲板の縁に寄りかかり、杖を揺らす。

「…ナマエ、もう冷えてきたわよ。早く中に戻りなさい」

わたししかいなかったはずの甲板には、いつの間にか人影が落ちていた。
暗い藍色の空を背負って佇むのは、久しぶりに顔を見たような気がする、アンジュさんだった。
驚いて目を見開くわたしに、アンジュさんは柔らかく笑う。

「話があるって呼び出したのはナマエでしょう。どうしてそんな顔をするの」
「え、や、…その、来てもらえるとは、思ってなくて…」
「…そんなに怒っていたように見えたかしら?」

アンジュさんが可愛らしく首を傾げた。釣られるように苦笑しつつ、甲板の縁に寄り掛かったままの背中を離した。
わたしの隣にやって来たアンジュさんと気まずい沈黙を味わいながらも、空を眺める。
それから少しして、勇気を振り絞り口を開いた。

「…ごめんなさい」
「…ナマエ?」
「アルマナック遺跡でのこと…。アンジュさんの言うことを聞かずに無茶して、倒れて…」
「…いいのよ、もう。私こそ、いつまでも怒っていてごめんなさい」
「そんな…!」
「もういいの。さて、この話はもう終わり!」

まだ何か言い足りないわたしを遮るように、アンジュさんが手を叩く。
乾いた音が甲板に響くのを聞いて、わたしは一旦口を閉じた。
甲板の縁を強く握り、橙色の光に照らされるアンジュさんの横顔を見る。

「わたし、ルミナシアが好きです」

アンジュさんが驚いたように目を見開き、わたしを見た。
その細い肩を縋り付くように握り、言い募る。

「だからわたしは、わたし自身の意思でこの世界の異変に関わっているんです。アンジュさんのせいじゃない、巻き込まれてなんかない!」

あの時、アンジュさんは少女に言った。
わたしは異世界の人間だから、これ以上巻き込みたくないと。
それは彼女の責任感からか、同情からか、わたしにはわからないけれど。きっと恐らく、彼女はずっとそう思っていたのだろう。わたしが赤い煙に関わろうとする度に、眉をひそめていた彼女は。
それでもわたしは関わりたい。たとえこの世界にいるのが偶然でも、わたしがこの世界に存在している意味がほしい。
そんな打算的な心の内を吐露することは、出来ないけれど。

「…実はね、私、すごく後悔しているの」

アンジュさんが杖を抱きしめたわたしの手を優しく撫でた。
眉を下げ、泣きそうな顔でアンジュさんは笑う。

「ナマエにその杖を渡したこと、武器を取らせたこと。すごく、後悔してる」

思わず杖を抱きしめる力を強くした。
アンジュさんはそんなわたしに構わず、手を伝い撫でて、杖に触れる。
遠い彼方に思いを馳せるように伏せられた瞳の色は、わからない。

「迷子の子供みたいに不安そうな顔をしてるあなたに、私なりに居場所を与えてあげようとして、この杖を渡したのよ」

依頼料のことはもちろんだけど、アンジュさんはそう笑う。わたしはただ目を見開き、彼女の言葉に耳を傾け続けた。

「でもね、あなたは私が思っていたより頑張ってくれて…。頼もしかった反面、まるでそうしなければいけない、みたいに頑張るナマエが、心配で仕方なくて…」

アンジュさんが、わたしが抱きしめる杖を取ろうとする。反射的にそれを振りほどくようにしたわたしに、アンジュさんは柔らかく微笑んだ。

「もう、いいの。あなたが武器を取る必要なんてない。ただこのバンエルティア号で、一生懸命に働いてくれればいいの。掃除をして、お茶を淹れて、依頼から帰ったみんなの傷を癒して…。ただそれだけで、誰かのためになれているわ」

杖を抱きしめる腕が震えている。アンジュさんの空色の髪が、滲んで見えなくなっていく。
それでも、暖かい手がわたしの頬に添えられたのだけは、わかった。

「私が責任を持って、あなたを元の世界に帰してあげる。…だから、もう戦わないで。誰かのために、傷付かないで」

戦うことが怖かった。武器を取ることが恐ろしかった。痛いことは嫌い。傷付くのも、傷付けるのも見たくなかった。
その優しすぎる言葉に、甘えてもいいだろうか。
優しく抱きしめられて、息が詰まる。アンジュさんは、そのまま、あやすように宥めるように、わたしの背中を撫でた。

「…本当に、戦わなくていいの?」

彼女は何も言わず微笑んで、頷く。
古い木で作られた杖が、わたしの手から零れ落ちる。自由になった両手をアンジュさんの細い背中に回し、縋り付くように抱きついた。

誰かが、甲板に落ちた杖を拾い上げる。

「それは駄目よ」

アンジュさんの胸から、顔を上げる。
滲んで歪んだ視界の中に溶け込むように、彼女はそこにいた。

「あなたは戦わなければならない。それがあなたの運命、そして使命」

甲板に落ちた杖を拾い、それを手にして彼女はこちらへ歩み寄る。
わたしとアンジュさんのすぐ近くで足を止めた彼女は、凛とした瞳をわたしに向けた。

「理の異なった世界からの迷い子。世界樹の福音を受けし、光纏う者」

アンジュさんの白い服に縋り付いていたわたしの手を、彼女の冷たい手が引き剥がす。
彼女は、拾い上げた杖をわたしの手に取らせた。
ずしりと、さっきよりも杖を重く感じたのは、気のせいだろうか。

「私は氷の精霊、セルシウス。あなたに与し戦うわ、ディセンダー」

彼女はそう言って、鮮やかに美しく、そして優しく微笑んだ。


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