現在も唯一、精霊が存在しているという霊峰アブソールに向かったのは、エミルさんとカイウスさんだった。
寒い場所だからとマルタさんとルビアさんに厚着させられる彼らを笑いながら眺め、二人と一緒に見送る。その時も、アンジュさんはわたしと目を合わせてくれなかった。
「はあ…」
そんなアンジュさんに声をかけるなんて、わたしに出来るはずはなく。
大人しく謹慎を続けながらも、とりあえず仕事だけは再開させてもらうことにした。
おやつの時間も終わり、クレアさんとロックスさんから食堂を預かりひたすらお皿を洗い続ける。しかしそれも終わってしまい、次は何をしようかと濡れた手を拭いていると。
「おい、お前」
視界に影が下りたのと同時に、声がかけられる。
顔を上げてみれば、目の前のカウンターに燃えるように赤い髪をした、わたしの見知らぬ男の人がこちらに身を乗り出していた。
思わず固まったわたしに不機嫌そうに眉を寄せた彼が、同じく不機嫌そうな声で言った。
「お茶」
「は、…はい?え、ええと…あの?」
「お茶淹れろって言ってんだよ。そんなのもわかんねえのか?」
「す、すみません。すぐ用意します!」
威圧的な声に飛び上がりつつ、まだ濡れたままの手でお茶の準備をする。さっきのおやつの時間でポットもカップも洗ってしまった。慌てて準備をしながらも、何故かそのままわたしの前、お茶を淹れろとカウンターから身を乗り出した時のままわたしの手元を眺めている。心なしか、楽しそうに目が輝いているように見えるのはわたしだけだろうか。
というか、この人誰なんだろう。ちらちらと彼を窺いながら紅茶の準備を終え、余ったから仕事が終わったら食べてとクレアさんに貰ったクッキーを添えて彼に出す。
「ど、どうぞ」
彼は何も言わず、わたしを一瞥してクッキーを口に放り込んだ。
クッキーを咀嚼する音と沈黙。不思議と食器がぶつかる音だけは聞こえないこの空間が気まずくて見知らぬ彼を窺っていれば、おもむろに相変わらず不機嫌そうな目がこちらを向く。
「何だよ、鬱陶しい」
「う、うっと…!す、すみません…その、見慣れないので……」
彼はクッキーを食べきり温くなった紅茶を一気に飲むと、初めて音を立ててカップを置いた。
「ルーク。ルーク・フォン・ファブレ」
「ルークさん、ですか」
「おう、ライマ国の王位継承者だ」
「ああ、ライマ国の……………え?」
再び固まる。
もしかして、もしかしてもしかすると、また身分の高い方なんじゃなかろうか。エステルさん、ウッドロウさん、ナタリアさんに続き、まさかの。
行儀悪く足を組みお茶のお代わりを催促してくる彼のカップにまたお茶を震える手で注いだ。
ふと彼が、顔を上げる。
「お前もここで働いてんのか?」
「えっ!…あっ、はい。今は謹慎中、ですけど」
「はあ?もしかして、お前もギルドの人間かよ。下働きじゃなくて?」
「い、今はそんな感じですけど、違います…」
見えねえ、と信じられないように呟くルークさんの目の前でうなだれる。ちょっとだけ、本当に地味にショックだ。
初めての依頼人と顔を合わせた時とか、不思議そうな、心配そうな顔をされる。頼りなさげに見えてしまうのだろうか。そんなに、このアドリビトムの一員には、見えないのだろうか。
明らかに落ち込んだわたしに気付いたらしいルークさんが、どこか慌てたようなばつの悪そうな顔で何かを言いたげにしていると。
「ナマエ!まあ、ルークまで!こんな所にいましたのね」
「ナタリアさん…」
「何だよ、どうしたんだナタリア」
「ナマエをルークとアッシュに紹介しようと思いましたの。アッシュ、彼女がナマエ。とてもおいしい紅茶を淹れてくれるんですのよ」
食堂にやって来たナタリアさんは、ルークさんとわたしを見て嬉しげにする。そして彼女に促され食堂へ入って来たのは、ルークさんと同じく燃えるように赤い髪をした、彼そっくりな男の人だった。
ぽかんと情けなく口を開けたままのわたしを一瞥した彼は、ルークさんの隣に座ったナタリアさんの隣に座り、小さく低い声で言った。
「…アッシュだ」
「…よ、よろしくお願いします……」
「二人は双子ですの。ナマエ、彼らも私達と同様にこのギルドで働くことになりましたわ。仲良くしてくださいな」
行儀悪く頬杖をついて舌打ちしたルークさんを、アッシュさんが鋭く睨み付ける。
にこにこと嬉しげに笑うナタリアさんを挟みながら、双子だという彼らは険悪な雰囲気だ。というか、エステルさんやウッドロウさん、ナタリアさんと比較すると、彼らはどこか、王族らしからぬ感じがする。決して上品じゃないとか、そういうわけじゃないけれど。
途端に重苦しくなる食堂の空気に気付かず、ナタリアさんはそのままの笑顔でわたしに言う。
「ナマエ、私達にも紅茶を淹れていただけます?ルークだけなんてずるいですわ」
「あ、はい」
「ったく、落ち着いてお茶も飲めやしねえ」
ルークさんが乱暴に椅子から立ち上がる。驚くわたしに構わず、引き止めようとしたナタリアさんの腕を払った。すかさずアッシュさんの鋭い睨みが彼に刺さる。
「ルーク!どこへ行きますの?」
「お前らだけでお茶会でも何でもしとけよ。俺は部屋に戻る」
「ナタリアがお前なんかを気遣っているんだぞ。それが婚約者への態度なのか」
「…っ、うるせえ!」
椅子を蹴り飛ばし、ルークさんは食堂を走り去った。
残されたのは、悲しげな顔でアッシュさんと食堂の入口を見比べるナタリアさんと、不快そうに眉を寄せたままのアッシュさんと、状況に付いて行けず唖然とするしかないわたしだけだった。
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