幸いなことに、ケージを襲っていた魔物はそれほど強くなかった。
勢い良く杖を振り上げて叫ぶ。
「スプラッシュ!」
虚空より落ちて来た滝のような水が、魔物を押し潰す。魔物が消えたのを確認して、杖を握りしめ縺れる足でケージに駆け寄った。
「ちょっ、ナマエ!」
「鍵、鍵ってどこ?助けなきゃ…!」
「契約はどうすんのよ。中を見ないって契約じゃなかった?」
「っそれは、でも…!」
壊れかけたケージの扉に掛けられた南京錠に触れようとした手を躊躇わせたまま、唇を噛み締めてイリアさんを振り返る。
彼女の言うことだって分かる。そういう契約で、この依頼を受けたのだ。
「中にいるのは魔物じゃない、人だ。僕達が受けたのは、人を捨てる仕事じゃない」
「クレスさん…」
クレスさんに後押しされて南京錠に手を掛ける。けれど鉄で出来たそれは魔物の攻撃でも傷を受けておらず、仕方なく扉を壊して開けようと、杖を振り上げる。後ろから、ため息が聞こえた。
「退きなさい」
イリアさんの声に反射的にケージから飛び退き、わたしの髪を掠めた銃弾が南京錠に当たる。鈍い音を立てて壊れた南京錠を強引にこじ開けた。
「ジョアンさん!ジョアンさ…っひ、」
太陽の光がケージの中に差し込む。けれど何かに光が反射し、思わず眩んだ目を見開いた先に飛び込んできたものに、悲鳴を上げた。
杖を落とし、その場に座り込んだわたしに驚いて駆け寄って来た二人も、同じように悲鳴を上げて息を呑む。
「な、何よこれ…」
「何故こんな姿に…」
「ジョアンさん、うそ、ジョアンさん…!」
「まっ、待ちなさいよ、ナマエ!」
伸ばした手は、やっぱりイリアさんに掴まれた。
ジョアンさんと、わたしの知らないもう一人。
ケージの中にいたのは、その二人だった。もう、人と言っていいのか分からないが。
皮膚を覆うのは鉱物のような、宝石のような物質だ。鋭い爪と、背中や頭から鬣のように生えている何か。顔の半分以上がそれに覆い隠され、赤く濁った瞳が眩しそうに細められ、わたしを見た。
「…ああ、あなたでしたか……」
「ジョアンさん、何で、どうして…!?」
「そ、それが、私達にも分からないのです…」
今にも崩壊しそうなケージから、二人に外に出てもらう。這って出てきた二人の光を反射するそれが目に痛い。
「あの赤い煙に触れてから病は治って村で過ごしていたんですが…。何故かは分かりませんが、村の中にいることがひどく居心地悪く感じるようになって…」
村だけじゃなくこの世に生きていること自体に、自分で、自分の存在が分からなくなって。
そう呟いたジョアンさんは、砂漠の渇いた地面を見下ろしている。確かにその姿は、ルミナシアの生物じゃない。この世界では、生きられないだろう。
「…自分が、今まで知っている自分ではない気がして…。そうして、次に意識がはっきりした時には、この檻の中でした。私は、この異形の姿になって暴れていたらしいのです」
「そんな、どうして…」
「彼、ミゲルもです。私よりも前に赤い煙に触れて、病気が治った後に、同じように肉体が変化し始めたんです」
ジョアンさんと同じように、けれどジョアンさんより変化が激しいのは、あのミゲルさんだったらしい。赤い煙に触れて、死の底から救われた彼。
赤い煙。震えが止まらず歯を食いしばるわたしにジョアンさんの濁った瞳が向けられた。
「…あなたは、何もないのですか?」
「……っわ、わたし…」
「あなたも私達と同じように赤い煙に触れた。それなら、あなたも…」
「やめてよ!」
ジョアンさんの空虚な声を遮り、イリアさんがわたしを強く抱きしめる。震えが治まらない背を、クレスさんが撫でてくれた。わたしの肩に顔を埋めたイリアさんの表情は窺えないけれど、見上げたクレスさんは青い顔をして、唇を噛み締めている。
赤い煙が齎したのは奇跡なんかじゃない。この手が届かなかった結末は、余りにも残酷だった。
「ああ、これから俺達はどうすりゃいい。ここに残って、死ぬのを待つしかねえのか…!」
今まで沈黙していたミゲルさんが絶望の声を絞り出す。渇いた大地が色を変えたのは、彼の赤い瞳から落ちた涙のせい。
ふと、自分の両手を見てみた。この世界に来てからは杖を握り、掃除をして洗濯をして。お世辞にも綺麗とは呼べなくなった手だけど、わたしにはとても誇らしいもの。
不思議と震えは消えていて、代わりに胸の奥から溢れる衝動が、わたしの手を再び伸ばさせた。
わたしを抱き寄せ、何かから守るようにする二人の手を振り払う。驚いたような顔をした二人から逃れるように、もはやルミナシアの民ではなくなった二人に駆け寄った。
「大丈夫です。助けますって、言ったでしょ?」
震えも、躊躇いもない。冷たくなった二人の手にわたしの冷たい手が触れる。呆然と見上げてくるジョアンさんとミゲルさんに、情けなく微笑んで見せた。
胸の奥から溢れた光が、二人を包む。触れた手から流れ込んで来る何かの痛みは、もう耐えられないほどではなかった。
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