手渡された本の表紙には複雑怪奇な文字が綴られている。
思わず模様のような文字を指でなぞっていると、頭上からため息と一緒に言葉が落ちてきた。

「それは僕が使っていた魔術の教本だ」
「教科書、ですか」

そういえば、ハロルドさんに生贄として差し出した鞄は、どうなっているのだろう。
必要なものだけは部屋に置いてあったので、今まで特に支障はなかったけれど。そういえば教科書は鞄に入れたままハロルドさんに渡してしまったと、ぼんやりと思い出した。

「魔術は独学でも学べないわけじゃないが、基礎くらいは教本を頼るべきだ」
「…あの、キールさん」
「何か質問が?」
「……わたし、ルミナシアの文字、読めません」

絶句したように固まったキールさんに、わたしは情けなく縮こまる。この世界に来た当初から勉強しているけど、未だに全然全く読めない。
廊下の真ん中を気まずい沈黙が支配し、意外にもそれを破ったのはキールさん自身だった。

「…いや、そうか。すまない、お前が異世界から来たことを忘れていた」
「こ、こちらこそ、ごめんなさい」
「…こうして話していても、お前が異世界の人間だなんて、言われなければ分からないな」

感慨深げに呟かれた言葉に、思わず苦笑を返す。
キールさんは戸惑うようにわたしから視線を逸らした。髪から覗く耳が、赤く染まっている。

「………その、何だ」
「はい?」
「僕が、文字を教えてやる」
「…ほ、本当ですか?」
「う、嘘は言わない。僕の研究の片手間、教えてやってもいい。この先、何かと必要だろう」
「あっ、ありがとうございます、キールさん!」

そっぽを向いて鼻を鳴らしたキールさんだけど、耳だけじゃなく頬も赤くなっていた。
素直じゃない奴なんだ、とリッドさんが笑っていたのを思い出す。

「まだお前をチキュウに帰す方法は見つかっていない。手掛かりすらないからな、まだしばらくはルミナシアで過ごすことになるだろう」
「…そう、ですか」

もう少しここにいたい。その気持ちに嘘はないけど、遠くにあればこそ、求めてしまうのが人間だろう。無い物ねだりだと肩を落とす。

「そ、そんなに落ち込むな。だから僕が、少しでもお前がルミナシアに適応出来るように、言葉を教えてやるから」
「…はい、ありがとうございます」

俯いていた顔を上げて、緩む頬を抑えることもなく情けない笑顔を見せれば、キールさんはほっとしたように息を吐いた。
けれどすぐにわたしに背を向けて廊下を突き進んでいく。慌ててその背中を追えば、振り返りもせず言われた。

「いいか、魔術も文字も僕が教えてやるが、僕は厳しいぞ」
「が、頑張ります!」

その様子をリッドさんとファラさんが微笑ましそうに眺めていたことに、キールさんは最後まで気付かなかった。





「もう、すっごく暑かったわ!さすが火山ね!」
「お疲れ様です。ルビアさん、ウィルさん」
「ありがとう」

オルタータ火山の星晶採掘跡地の調査に行っていたウィルさんとルビアさんが、船に戻って来た。
氷を入れて冷やしたレモンジュースを渡せば、すぐに二人共飲み干してしまった。お代わりを注いでも、すぐに空になってしまう。
さすがに火山。わたしには想像も出来ないくらいの暑さだったのだろう。

「それで、どうだった?赤い煙は観測出来た?」
「ああ。少しの間だが、観測に成功した」
「ほ、本当ですか!?」

思わず飛び上がったわたしに、ウィルさんは頷きながら小さな箱を手渡した。開けろと促されるまま蓋を開け、中を覗き込んだ。

「…む、虫!」
「ウィルさん、この虫はどうしたんですか?」
「赤い煙が、このコクヨウ玉虫に触れたんだ」

ウィルさんとルビアさんが見た赤い煙は、まるで意志を持っているかのように、生きている虫や草にしか触れなかった。
早々に虫をウィルさんに返却し、眉をひそめたアンジュさんを見る。

「…駄目ね、分からないことが増えただけわ」
「煙が生きてるなんてこと、ないですよね?」
「普通に考えれば、ありえないことだけど…」
「どうにも俺は、そうは思えん」

ウィルさんは腕を組み、低く唸った。ルビアさんも杖を抱きしめ、躊躇うように視線を逸らす。
間近で赤い煙を見た二人が否定しきれない。意志を持ち、生きている煙。正体不明のそれに、沈黙が落ちた。

わたしの知らないところで、何かが静かに始まりを迎えている。
誰かがわたしの耳元で、そう告げていた。


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