冷たい床に倒れ伏したラザリスは、それでも諦めることなく再び立ち上がろうとしていた。
血の気のない唇からは苦悶の声をこぼし、床に立てたその爪を震わせ、濁り切った真紅の瞳はその真っ直ぐにこちらを貫いている。荒い息を吐きながら最後の力を振り絞るよう立ち上がった彼女は、傷だらけの体でありながらも戦意を失っていないようだった。彼女が背負うものの重さを感じさせられる。息を荒げていたカノンノは悲しげに顔を歪め、やるせなくもその剣を構えた。
ラザリスは屈しない。諦めない。このルミナシアを手に入れるまで、絶対に。今にも絶えそうに震える呼吸を繰り返しながら、か細く掠れた声で呟く。

「僕の…世界を…っ、消さ…せる…もの…か…!」

今にも電池が切れそうな電球のように、ちかちかと瞬く赤い光が再びラザリスの指先から放たれようとして――びくり、とその指先が震えた。わたしは息を呑んで左目を押さえる。痛いと言うわけではない。疼くと言うわけでもない。ただ、生物としての本能のように、騒ぐのだ。
思考を引っ掻き回すようなさざめきの中、突如として動きを止めたラザリスの周りにドクメントが浮かび上がる。どこまでも赤く、紅く、血のような色をしたそれに見覚えがあり過ぎた。そのドクメントは幾重にもラザリスを取り巻くと、驚きに目を見開く彼女へと迫り、その傷だらけの身体をきつく縛り上げる。

「な…、これは…!?」

ラザリスは苦痛に顔を歪めながらも身を捩るが、ドクメントは更にその拘束を強くする。ぎり、と軋む音がこちらまで聞こえてくるようだった。
わたしは困惑して構えかけていた杖を下ろした。ラザリスに駆け寄ることが許されるかどうかがわからなくて、踏み出した一歩のその次を躊躇ってしまう。そうしている内に拘束は強くなっているようで、ラザリスが喘ぐように悲鳴を上げた。

「あれは、ジルディアのドクメント…。これから生まれようとしている、生命の意志だ…!」

慄くようなニアタの無機質なはずの声が震えているように聞こえたのは、きっと気のせいではないのだろう。きつく縛り上げられたラザリスは足掻きながらも唇を震わせ、食い入るようニアタの言葉の続きを待っていた。

「ラザリスを守ろうとしている…。ラザリスが創造の力を与えなくとも、ジルディアの民は自らの意志を創造し、ラザリスと共に在ろうとしているのだ…!」

見開かれた真紅の瞳が驚愕に染まっていくのが痛々しかった。ぐらり、とその首が力なく項垂れる。一方でドクメントの拘束は更に力を増してラザリスの冷たい皮膚を締め上げているのだが、彼女はそれに構うことなく、呆然と呟いた。

「うそだ…。僕が与えなくても創造を…!?僕の世界が…僕の世界の生命が、罪を背負おうとするなんて…!」
「待って、やめて!」
「僕を、僕を守らなくていい。争う意志なんて、持つのは僕だけで十分だ!」

それはどこまでも深い母親の愛で、対する子の愛もまた、果てのないものであった。わたしもまた彼女に生み出された、彼女によって生まれ変わった命のひとつ。わたしだって出来ることならこれ以上あの子に戦ってほしくない。これ以上あの子を傷付けたくなかった。そんなわたしの――わたしと同じ彼らの意志を、ラザリスは受け入れてくれない。
壮絶な悲鳴を上げたラザリスが渦巻くドクメントに取り込まれていく。赤い光がわたし達の目を焼き、隣のカノンノが悲鳴を上げて両目を覆った。鮮烈な光に思わず落としそうになった杖を必死に手繰り寄せるが、灼熱の石を眼窩に嵌め込まれたような痛みにわたしまで悲鳴を上げそうだった。
痛い。熱い。痛い――つめたい!

「これは…!ラザリスと、ジルディアに生まれようとする者…世界の意志が反発し、食い合っている…!」

焼き切れそうな思考の遠く向こうでニアタの声がする。激痛に負けて膝を折り左目を押さえて蹲るが、それでも光の先を、ラザリスを見ようと薄く瞼を押し上げた。
光の中心には影だけがくっきりと浮かび上がっている。もがき苦しむラザリスの影が屈折でも何でもなく、ぐにゃり、と歪んだ。

「やめろ!やめろおおおおおっ!!!」

命を振り絞るような咆哮が響き渡る。そして何の前触れもなく光は収束していき、蹲ったまま瞬きも忘れて――変わり果てたラザリスを見つめた。
その姿を何と表せばいいのだろう。それはこれから芽吹く大輪の花か、それとも咲かぬまま落ちた蕾か。毒々しい花に転じたラザリスの瞳はどこまでも虚ろで、だらりと力なく投げ出された両腕は原型を留めておらず、まるで蝋細工の羽のように思えた。見るに堪えないほどに、あまりにも残酷な姿だった。初めてこの左目が花と咲いたあの夜の生物的な嫌悪感が再び込み上げてくるようで、わたしは必死にそれを飲み下したが、溢れる涙の欠片は止まらない。
どうして。どうして、こんなことに。どうしてラザリスが、こんな悲しい姿に。

「ラザリス…」

虚ろな赤色の硝子玉がこちらへ向けられる。色のない唇が微かに震えるが、しかし、あの声でわたしの名前を呼んでくれることはなかった。
代わりに呆然と立ち尽くすわたし達を囲うよう四方から牙のような何かが、勢いよく地面を突き破り姿を現す。はっとして涙の残滓を拭い取り落とした杖を拾い上げれば、皆それぞれ状況がわからないながらに武器を構えていた。

「調和を見失っておる。混沌へ向かう力となったか…」

諦念のようなものが込められたその言葉に、もう一度戦わなければならないのだと、嫌でも気付かされた。杖を頼りに立ち上がり、直視に耐えない姿となり果てたラザリスと向き合う。

「全く、最後まで手の掛かる奴だ。行くぞ、ナマエ」

すれ違いざまにそう囁いて、リオンさんは牙のような何かに斬りかかる。

「今度こそ最後だろ。…やろうぜ、ナマエ」

わたしの頭を軽く叩き、スパーダさんが振るった刃が牙のような何かの詠唱を阻む。

「大丈夫だ、きっと取り戻せる。…行こう、ナマエ」

コートの裾を靡かせて、アスベルさんは剣を鞘に収めたまま牙のような何かへ駆けて行く。
そして、剣を抜いたユーリさんがわたしを振り返った。紫水晶の瞳と目が合って、やはりその美しさはわたしの胸を騒がせる。左目の痛みなど、もう、遠くなっていた。

「ナマエ、お前の手で…終わらせろ」

わたしは。わたしは静かに、しっかりと、頷いた。
ユーリさんは他の三人と同じように牙のような何かと戦い始める。わたしとカノンノは虚ろなラザリスへ向き合い、それぞれの武器を構えた。ラザリスが吼える。蕾のような下半身がぐるりと回転して熱線をばらまき、カノンノはそれを避けつつ距離を詰め、わたしは更に後退する。
床に散らばる乳白色の欠片を杖の先で払い、かん、と音を立てて杖を突き立てる。

「カノンノ、お願い。…時間を稼いで」
「…うん、わかった。大丈夫だよ、ナマエ。私に任せて。だから…一緒に戦おう」

カノンノがラザリスに飛びかかる。わたしは突き立てた杖を真っ直ぐ握りしめ、ふう、と吐息をこぼした。今なら何だって出来るような気がした。不可能はないと信じられた。カノンノとせめぎ合うラザリスの成れの果てを瞳に焼き付けて、そっと、瞼を下ろす。
脳裏にはわたしが焼き尽くした彼らの仄暗い眼窩が浮かんでいた。彼らが――わたしがラザリスを守ろうとした結果があれなら、ラザリスが彼らを――わたしを守ろうとした結果がこれなら、何と皮肉なことなのだろう。だからこそわたしがやらなければ。
ディセンダーのわたしが、ルミナシアとジルディアのディセンダーであるわたしが!

そっと瞼を上げれば、杖を握る両手から光が溢れていた。わたしは驚いて目を瞬かせ、次いで泣きそうになって嗚咽をこぼす。その光はとても懐かしく、あたたかな、生命を感じさせる陽だまりのような黄色をしていた。世界樹がわたしの背を押してくれているんだと思った。何故ならその光は何も知らなかったわたしが何の痛みも苦しみもなくひとを救おうとしていたあの頃と同じ強さで、ただ、痛いほどの強さでわたしを包んでいるからだ。

「行け、ディセンダー。未来を紡いでこい!そなたの欲する未来を創れ!」

何かがほどけていくような優しさを左目に感じる。久しぶりにこの両目で見たラザリスは、濁り切った赤色の瞳をわたしへ向けていた。
もう一度笑ってほしい。もう一度だけ、抱きしめさせてほしい。
ニアタの声に最後の背を押され、わたしは杖を掲げた。

「ディバイン・ジャッジメント!!!」

光の中に再び叫ぶラザリスの影が浮かび上がる。その歪な影が溶けるように少女の姿に戻り崩れ落ちて――わたしはようやく自分が涙を流していたことを、熱い頬に触れて知った。


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