魂を震わせるような鼓動が聞こえた。
思わず両手で耳を押さえるが、薄い手のひらなど透かして鼓動は絶えずわたしを揺らしている。不快なわけではない。けれど、逸るような鼓動はいつか聞いたそれとはあまりにも違っていて、それだけがとても悲しかった。滑らかな光沢を纏う異質な暗闇の中では、木々のざわめきも聞こえない。
乗り込んだエレベーターは長く上昇を続けていた。それは明らかに今まで昇降を繰り返していたものとは違っていて、誰からでもなく皆が纏う雰囲気を変えていく。わたしはそっと両手を離した。エレベーターが上昇を続けていく度に、鼓動も大きく響いてくる。ごくりと喉を鳴らしたわたしに、虚空を浮遊するニアタがそっと囁き聞いてくる。

「ナマエ、世界樹の鼓動を感じたか」
「…うん……」
「ニアタ、ナマエ?」

カノンノが不思議そうに首を傾げた。エレベーターが向かう先を見上げ目を離せずにいるわたしに代わり、ニアタがいつものような無機質な声で言う。

「世界樹の鼓動を感じる。生命の場はこの先か…」

誰も、何も、言わなかった。
滑るように上昇を続けていたエレベーターが音もなく停止する。開けた道を行き、大きな橋を渡ったずっとずっと先。牙を剥いたようなその空間の中に、華奢な背中を見付けた。

「ラザリス…」

彼女はまだわたし達に気付いていないのだろう。優しく力強く輝いている光を見上げ、微動だにせず佇んでいる。その背中はあまりにも小さかった。少なくとも彼女こそが今この世界に牙を立てているのだと、そうと知らなければ思いもしないだろう。小さく、細く、儚い背中だった。
みんなはわたしが踏み出すのを待っていてくれているのだろう。わたしは杖を握りしめ、大きく深呼吸をした。大丈夫、きっと言葉は届くから。そう言い聞かせて足を踏み出そうとして――少しだけ躊躇ったわたしの背中を誰かに優しく押され、ようやく一歩、その空間に足を踏み入れた。
足音が鳴る。ラザリスはその肩を揺らし、気だるげにこちらを振り返った。しかしそこにいるのがわたしだとわかって花が綻ぶように微笑むも、すぐに後ろにいるカノンノ達に気付いたのか眉を寄せる。拗ねるような仕草があどけなく、幼気で、とても無邪気だった。

「来たんだね、ナマエ」

わたしは頷く。ラザリスは再び嬉しそうに微笑んで、自らの頭上にまばゆく輝く光を仰いだ。

「あの後ろの光が見えるかい?あれこそがルミナシアの世界樹の中枢、生命の場。生命力が生まれ、世界の理を維持するところ」

あたたかな、命のように瞬く光。あれはラザリスにないものだ。それを見上げぎらぎらと輝く真紅の瞳は確かに力強いものではあったが、それはどこか作り物めいている。

「これから僕は、あの生命の場を手に入れる。君達の世界ルミナシアはここで終わり、僕の世界、ジルディアがここから始まる。君達の命も、僕の理の中で争いもなく、僕が与える恵みに浸り、平和に暮らしていける。そこでは悲しみもなく、痛みもなく、ただ幸せに生きていけるんだ」

ラザリスは息の詰まりそうなわたしに微笑みかける。それこそがわたしの願いであった。そう、赤い流星だった彼女は未だに信じているのだ。
わたしは震える肺を叱咤して息を吸い込む。言葉を選ぶ余裕なんて、欠片も残されていなかった。

「ラザリス!もういいの、もういいから…!わたし、もうそんな世界を願ってない!痛くてもいい、苦しくてもいい!」

赤色の瞳が見開かれる。不思議そうに首を傾げたその仕草が愛しくて、痛々しくて、もう一歩だけ踏み出す。縮まったのは物理的な距離だけだ。けれど、それだけでもこの一歩に価値はあったと信じて杖を投げ捨てる。自由になった両手を精一杯に広げて、わたしはその小さな身体を抱きしめた。

「もういいよ、わたしの願いを叶えようとしてくれてありがとう…本当にありがとう…!でも聞いて、都合のいいことを言うけど、わたしの今の願いはラザリスと一緒にこの世界で生きることなの。ラザリスと、…カノンノと。みんなと、このルミナシアって言う優しい世界で生きたい。そしたらもうわたし、寂しくない。だからお願い、もうやめて…!」

きつくつよく抱きしめた身体はとても小さい。そして、とても冷たかった。びくりと震えたその身体を離すまいと縋り付くように力を籠める。まだ柔らかい肌に彼女の纏う石が刺さり眉を寄せるが、この痛みも彼女と触れ合っていることの証だ。
わたしのこの冷たい手でぬくもりを与えられるのだろうか。この手を通して伝わってほしい。わたしがたくさんの人から貰ったぬくもりが、優しさが、他の誰でもないラザリスに届きますように。祈りながらもこぼした嗚咽が、かつん、と音を立てて涙を落とした。
抱きしめた身体が小刻みに震え始めた。ラザリスの手がまるで縋り付くように――どこか拒絶するように、わたしの腕を掴んだ。

「な、にを…言ってるんだい、ナマエ…。こんな醜い世界は君を傷付けるだけだ。ルミナシアの世界樹は、君の願いを手折ったんだ…!」
「ラザリス…」

痛いのは嫌だ。苦しいのは嫌だ。優しいだけの世界で生きたい。そう願ったのは紛れもないわたしで、赤い流星だったこの子はわたしのそんな滑稽な願いを叶えてくれた、だけ。幾度目がわからない後悔が押し寄せる。わたしがあんなことを願わなければ彼女の在り方は変わったのだろうか。わたしがこの手で命を奪ったジルディアの同胞達はあんな不完全な命にならなかったのだろうか。
掴まれた両腕にラザリスの鋭い爪が突き立てられる。それが彼女の心の内を表しているようで、その激情に駆られるまま、ラザリスはわたしに叫ぶ。

「ナマエは僕の世界で生きるはずだった!僕の世界の住人として生まれ変わって、ジルディアで幸せに生きるはずだったんだ!それなのにルミナシアの世界樹は君にディセンダーとしての力を与えた…僕の世界のディセンダーになるはずだった君に…!!」
「ラザリス、違うの!あれは、あれは世界樹が…!」

悲痛な声が幾重にも反響してわたしの心臓に突き刺さる。その場に跪いて泣いて許しを乞えるのなら、わたしは間違いなくそうしただろう。
根本的な行き違いはそこなのだ。彼女はきっと、赤い流星として出会ったあの時、あのままではわたしが本当に命を落としていたことを知らない。地球で生まれたわたしはジルディアの住人になりきることが出来ず、苦しさにもがいて、あたたかな枝葉に包まれ救われたことを。わたしも――わたしをここまで愛してくれるラザリスもまた、ルミナシアの世界樹に助けられたのだと知らないのだ。
けれど、わたしは今のラザリスにそれを告げることを躊躇ってしまった。この子はわたしをここまで愛してくれているのに、もしもその真実が彼女を追い詰めてしまったら。
――結局はその一瞬の逡巡が、ラザリスとの決別となってしまったのだろう。

「何も違わない!ルミナシアの世界樹は、僕からナマエを奪ったんだ!!!」

縋り付くようにしていたはずのその腕が力の限りわたしを突き飛ばす。無様に床へ倒れ込みそうになったわたしを間一髪で助けてくれたユーリさんが、その眼光を鋭くラザリスを見据えた。素早く緑と白の背中が視界に割り込む。側でリオンさんが剣の柄に手をかけて、カノンノはわたしに抱きつくように駆け寄った。そんなカノンノと共にニアタが宙を滑り来る。大丈夫か、とあの無機質な声で問われるが、頷くことは出来なかった。
届かなかった。わたしは漠然とそう思った。息を荒げ俯いていたはずのラザリスだったが、触れれば壊れてしまいそうな沈黙の中、不意に顔を上げる。そのあどけない顔からは一切の感情が削ぎ落とされ、真紅の瞳はただ温く光を反射する硝子玉のよう。ぞっとするほど美しく、しかし、命の息吹を感じられなかった。

「だから、僕が変える。ルミナシアを。僕が与え続けるよ、君達は何もしなくていい。僕の世界では、『創造』をする必要はないんだ」
「あなたは自分の世界の住人から、創造を奪うつもりなの!?」

カノンノが思わずと言った様子で声を上げる。ラザリスは無感情に彼女を見ると、力強く頷いた。

「そうさ。創造は欲だ、罪なんだよ。君達の欲は満たされることがない。人はそれを追い求め、ついには危機を招く。僕一人がその罪を背負うよ。この世の終わりまでね…」

その言葉にはどれほどの慈愛と悲哀が込められているのだろう。ユーリさんに支えてもらっていたままの体に力を入れ立ち上がろうとすれば、爪先に何かが触れる。それは先程捨てたはずの杖だった。

「世界樹はきっと、そんな生き方を望んではいないよ…」

やるせなさを滲ませた声で呟かれたカノンノのその言葉に、真紅の瞳が見開かれる。

「だったら!だったら何故僕を取り込んだ!僕を封じ込めてまで!」

敢えて杖から目を逸らすように、もう一度ラザリスを見据える。考えることなく、彼女に告げる言葉はするりと開いた口からこぼれてきた。

「一緒に生きたいからだよ。ルミナシアの世界樹は、…わたしは、ラザリスと一緒に生きたい」

ラザリスはこれ以上ないほどに瞳を見開いた。睫毛が震え、唇がか細く吐息をこぼし、静かに瞼が下ろされる。閉ざされる前の一瞬に見えた瞳には、あの硝子玉のような作り物めいた光はなかった。今度は届いたかもしれない。この飾り気もない真実の言葉が届いたと、信じたかった。
しかし例え言葉が届いたとしても、もう彼女は進むと言う道しか残されていなかったのだ。ラザリスは緩く首を横に振り、呟く。

「無理さ…。僕の世界はルミナシアと交わらない。…交わりたくもない」
「ラザリス…」
「僕には君だけでいい。君と、僕の世界の住人さえ幸せになってくれればそれでいいんだ。…だけどごめんよ。やはり君を奪うまでは、ルミナシアの世界樹は諦めてくれそうにない」

真白い指先がこちらへ向けられる。それぞれが剣を抜く音がして、わたしは泣きたいような衝動のまま跳ね起きて杖を取る。紛れもない自分の意志で、誰から与えられたわけでも押し付けられたわけでもなく、わたしのこの手でラザリスと対峙するために杖を構えた。
カノンノとユーリさんの背に庇われるようにしながら目尻の涙を拭い、本当の本当にこれが最後だと、ラザリスに問いかける。

「教えて。…どうして、あの時のわたしの願いを叶えようとしてくれているの?」

ラザリスはこちらへ向けた指先を下ろさなかった。しかし、真っ直ぐにわたしを見つめ返す。

「…ナマエは、生まれてすぐに封じ込められた僕に、初めて笑いかけてくれた命だった。そんなのは初めてだった。もっと笑ってほしかった。僕の側で、ずっと、ずっとずっと…ナマエ」

そう言ったラザリスの花綻ぶような微笑みが、いつかわたしが愛らしくて笑みをこぼしたあの赤い流星と重なって――消えた。
かつん、かつん、音がする。カノンノがわたしを振り返り、その瞳から涙をこぼしながら頷いた。嗚咽をこぼしながらわたしも頷き返す。こんなにも悲しくて苦しくてつらくて惨めで愛おしい戦いは、きっともう二度とない。

「来るんだ、ディセンダー。僕のものになってもらうよ!」

その指先から放たれた赤い光が真っ直ぐに、躊躇いもなくわたしの瞳を焼いた。


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