不意に、わたしの左目が疼いた。
その時に何か声でも上げてしまったのか、すぐ前を歩いていたユーリさんが振り返る。そうして一瞬だけ目を見開くと、躊躇いもなくその手をわたしに伸ばした。武骨な指がわたしの左目だった花に触れる。直接神経に触れられているような不思議な感覚に背筋を微かに震わせれば、音もなくその触れられた場所から光が溢れ出した。
わたしは微かな痛みに目を瞬かせた、つもりだ。実際にはどうやらわたしの左目は瞬きをしようとすると微かに花弁が震えるだけなのだが、その感覚にも慣れ始めていた。ユーリさんはわたしの左目の花から手を離し、無遠慮に顔を覗き込んでくる。涼やかな美貌が吐息も触れ合うくらいに近くて、わたしはもう一度花弁を震わせ、情けない悲鳴を上げた。

「ユっ、ユーリさん、近い!」
「いいから、ちょっと大人しくしてろ」
「ひええ無理です近いです離れて!」

ユーリさんはあからさまに不愉快そうにその柳眉を寄せ、がしりと、光の速さで逸らしたわたしの顔をその両手で固定した。首がごきっと嫌な音を立てた。二重の意味で声も上げられずに悶えるわたしを余所に、ユーリさんは更にその顔を近付けてくる。
いや、本当はちゃんとわかってる。わたしの左目が疼いたのは幾度目かわからない生物変化の予兆で、ユーリさんはカノンノから貰ったその力でそれを抑えてくれたわけで、今はちゃんとわたしの左目がさっきまで咲いていた花と同じそれかを確めているのだ。わかってる。わかってはいるが、そんなことより、とにもかくにも近い。
呆けて開きっぱなしの口からまた情けない悲鳴がこぼれそうになった頃合いを見計らってか、思いの外乱暴に掴まれた腕が引かれる。しかしバランスを崩したわたしの背に回された大きなてのひらは先程の乱暴さとは打って変わって優しくて、何だか妙に熱く感じられた。
恐る恐る顔を上げる。何故だか険しく顔をしかめている彼に軽く驚いていると、ユーリさんは宙に浮いてしまった両手を下ろし、同じように眉を寄せた。

「何だよ、アスベル。ただ左目を治してやってただけだぞ」
「いや、別に。…少し、近過ぎないかと思って」

張り詰めたような沈黙。そしてどちらともなく二人揃ってため息を吐いて、ユーリさんはくるりと踵を返し、アスベルさんは先に行こうとわたしの背を押した。さっきの沈黙は何だったんだろうか。わたしは首を傾げるしかなかった。
立ち止まっているわたし達に気付き足を止めていたカノンノ達と合流し、次のエレベーターに乗り込む。浮遊感すら感じないほどの一瞬の内に景色が変わり、注意深く辺りを見渡しながら更に先へと進んだ。
魔物がいないとは言え陣形は崩さずに、後衛であるわたしは自然と最後尾を歩いている。それからまた少しして。ぼんやりと皆の背中を眺めていたわたしと、不意に振り返ったユーリさんとの目が合った。反射的に体が跳ねる。ユーリさんは軽く呆れたようにしながらもすぐにまた前を向いた。そう言えば、さっきもユーリさんはすぐわたしの変化に気付いてくれた。もしかして時折こうして後ろを振り返ってくれていたのだろうか。気にかけてもらっていたのだろうか。きっとそうだと、迷うことなく思った。
そう思った途端に胸にこみ上げてきた、叫びたいような縋り付きたいような衝動を必死に抑える。この人はいつもそうだ。いつだっていつだって涼しい顔の裏で血を吐いて涙を流している。わかりやすい優しさをくれない人。わたしが意地を張ろうと気付かないふりをしようと、彼はずっと、ずっと。

「きれいだな」
「…え?」

いつの間にか歩調を緩めていたらしい。顔を上げれば目の前に黒い背中はなく、ユーリさんは少しだけ穏やかな横顔が窺えるくらいの近くにいた。少し先にはカノンノがいて、リオンさんをからかうスパーダさんを苦笑しながら制止している。アスベルさんもその輪に加わってはいるが距離はそう遠くなくて、それなのにユーリさんの声が秘め事のように囁くから、何だか胸の奥をくすぐられたようだった。
ユーリさんは剣を肩に背負い直し、あくまでもこちらを見ずに続ける。

「そこに咲いてる花。…そりゃ作り物みてえだけどさ、やっぱり、きれいなもんはきれいだよ」

その横顔があまりにも凪いでいて、穏やかで、心の奥底を吐露されたような錯覚を抱いてしまった。
暗闇の中にぽつんと淡く浮かび上がる花。それはこの世界と同じように、わたしの左目と同じように、作り物めいて輝いている。それを恐れたこともあった。愛おしく思ったこともあった。疎んだことだってあったけれど。
わたしは小さく、けれど確かに頷いた。おもむろに伸びてきた手が震える花弁を撫でていく。あの夜、花弁に触れた冷たいそれを思い出して咄嗟に肩が震えた。ユーリさんは苦く笑ってそのあたたかな手を離そうとして、わたしは躊躇いながらも冷え切ったこの手をそっと重ねた。ユーリさんが驚いたように足を止め、手を重ね合ったわたしも当然その場に留まる。紫水晶のような瞳が真っ直ぐに自分へ向けられていることに生まれて初めての高揚感を覚える。先を行く仲間の背を追う気は、不思議と起きなかった。
あの子にこの手のぬくもりを分けてあげたくて歩いていたはずなのに、――この一瞬だけは、このぬくもりはわたしだけのものであればいいと、思ってしまった。


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