ニアタに連れられ降り立ったエラン・ヴィタール。生命の躍動、と名付けられたその空間は、しかし生命の気配など感じられないものだった。見渡す限りが美しくもぼんやりと曖昧に輝く鉱物で形成され、どこからともなく蕩けそうに甘ったるい匂いが漂ってくる。赤くどろりとした液体が川のように伝い落ちる様は、何と言うか、やはり異様としか言い表せない。
ニアタは滑るように宙を進み、ぐるりとその頭を回す。そうして自分を取り巻く世界を眺め終わると、囁くように呟いた。

「ここはまことに美しいな」

滴り落ちる赤色を眺めていた顔を上げる。ニアタは真っ直ぐにこの空間の中心に聳える塔を見上げていた。わたしも習うようにそれを見上げて、小さく頷く。視界の端で黒髪が揺れる。わたしの姿はもう、見慣れたヒトの姿に戻っていた。

「ここがラザリスの世界…彼女が生み出すはずだった世界の風景。だが、まだ完全ではないようだ。世界の息吹、意志が感じられない」

だからこそラザリスは、生命の場を奪おうとしているのだろう。ルミナシアに代わり世界として生まれ直すため、彼女はきっとこの空間の深奥に一人、佇んでいるのだろうか。
わたしはそっと塔から視線を下ろした。すぐ側にある淡い桃色の石柱に写り込むわたしの姿は確かに人間のそれだが、左目には変わらず赤い花が咲き誇っている。もうそれを嘆くつもりはなかったが、やはり気にしてしまうのが人間の性と言うもので、それを振り切るように再び視線を移す。
彼らはこの空間に足を踏み入れた当初こそ異世界の風景に困惑していたようだったが、様子を窺うにこの空間を受け入れ始めているようだった。それでもまだ戸惑いから抜けられずにいるカノンノが、夢見るようにふわふわとした声で呟く。

「何だか、本当に異世界にいるみたい…」
「…僕達にとって、ここは正しく異世界だろう。まだ不完全とは言え、ここはラザリスの世界…ジルディアだ」
「っつーか…異世界人を目の前に言うことじゃないけどよ、まさか自分が異世界に来るとは思わなかったぜ。人生って何があるかわからねえモンだな」
「全くだ」

リオンさんは深々と頷いてスパーダさんに同意した。カノンノは気遣うようにわたしと彼らを見比べていたが、全くもって二人の言う通りなのでわたしも遠い目をして頷くしかなかった。本当、人生って何があるかわからない。
付近の探索でもしていたのだろうか。輪から外れていたユーリさんとアスベルさんが戻って来る。ユーリさんはいつも通り飄々とした様子だったが、アスベルさんはどこか青い顔をして口元を押さえていた。大袈裟なまでに飛び上がったわたしとカノンノを片手で制し、アスベルさんは柳眉を寄せる。

「いや、違うんだ。体調が悪いってわけじゃなくて…空気に酔った、って言うか……」
「空気に?」
「ここ、何だか甘い匂いがするだろ?別に甘いものは嫌いじゃないんだけど、ここに来てからずっとこんな調子だから、さすがに胸やけが…」

わたしはさりげなくユーリさんとリオンさんを見る。二人共頑なにわたしと目を合わせようとしてくれなかった。
しかし、既にこの空気の中で生きていける生物であるわたしは別として、確かこの空気は彼らにとっては毒だといつかのラザリスが言っていた。熟しきった果実の、芳醇で、ともすれば酔ってしまいそうな匂い。ぼんやりとしていると瞬く間に思考を白く塗り潰していくようだった。

「…ふむ。我々の受容回路の分析では、中空にあるあの丸い物体が匂いの原因のようだ」
「丸い物体って、…もしかしてあれ?」

ニアタとカノンノの声に意識を引き戻され、隣にいるスパーダさんに釣られるよう顔を上げる。頭上に漂う球体。そう、球体だ。あれがこの空間を包み、わたしの意識を撹拌させる原因なのだろうか。わたしは静かに目を瞬かせる。対して、ニアタは頷いた。

「この世界で『植物』に当たるものだな。ルミナシアのそれとは、とてもかけ離れたものになるだろうが」

例え同じ『植物』と呼ばれるものであったとしても、世界が異なるだけでこんなにも姿形が違う。少なくとも地球の植物とルミナシアの植物は、それこそ多少のファンタジー要素が盛り込まれていようと、ちゃんとわたしの知る『植物』の形をしていると言う共通点がある。だからこそジルディアの、ラザリスの世界で目にする全てのものは、わたしにとってはひどく強烈なものばかりだった。

「他にも何か、気になるものはあるか?我々で良ければ答えよう」
「あっ、それなら…そこの、赤い液体」

わたしが指差したのは、足元を流れ這う赤い川。先程とは逆、今度は地面を見下ろしてニアタは頷いた。

「…ただの赤い液体に見えるが、どうやら大量のプランクトン…原生生物のようなものらしい」
「…プランクトン……」
「これも、この世界の住人なのだな…」

その場で膝を折り、赤い液体をしげしげと眺めた。いつの間にかカノンノも同じようにしゃがみ込んでいて、二人揃ってプランクトンだと言うそれを見つめてみたけれど、さすがに何もわからず顔を見合わせる。呆れたような声でユーリさんに呼ばれ、もう一度だけそれに視線をやって立ち上がる。ラザリスの世界の生物。そう思うだけで不思議な感慨に襲われるわたしは、おかしいのだろうか。だってわたしはきっときっと、彼らの同胞なのに。

「さて、まだ入口だと言うのに長居をし過ぎてしまったな。ナマエ、先を急ごう。目指すべきは恐らく、あの塔の頂上だ」
「うん、そうだね…って、ちょっ!カノンノ、さすがに触らない方がいいと思うよ…!」
「え、そうかな?」
「恐らく無害だとは思うが…何せ異世界の生物だからな。人体にどう言った影響があるかわからない以上、迂闊に触れない方がいい」
「ほら、ニアタもこう言ってるし」
「うーん、そうだね…。何だかゼリーみたいで面白そうだったんだけど…」
「いやだからそれプランクトンだって。ゼリーじゃないって。…さて、ええと…出発しても大丈夫ですか?」

わたしの問いに頷いてくれたのはニアタとカノンノだけだった。残る四人はそれぞれ不服そうな表情を浮かべ、ある人は残念そうにため息を吐き、ある人はつまらなさそうに鼻を鳴らして、渋々と言った様子で頷いた。
わたしは頬を引きつらせる。まさか、ついさっき強制終了させたばかりの『ナマエに敬語を止めさせるためにはどうすればいいか』なんてくだらない理由の会議を再び開くつもりじゃなかろうか。正直言って男の人が四人集まってこそこそと話し合ってる様はものすごく異様だったので何度だって強制終了させるつもりだけど。

「ナマエ、どうしたの?」
「あ、…ううん。行こうか、カノンノ」
「うん!」

カノンノの眩しいばかりの笑顔に自然とこぼれた笑みを返し、手を繋いで歩き出す。
そんなわたし達の背後。まあ、その、…頑張りたまえ。無機質な声に精一杯気遣うような色を乗せて、ニアタは何故かそんなことを囁いているのが聞こえたような気がした。


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