現在、午前四時。
カノンノが食堂で仕入れてきた情報によると、どうやら早朝にはアンジュさんが選抜したメンバーがエラン・ヴィタールへ出発するそうだ。思ったよりも時間がない。焦りに顔を歪めれば、カノンノも同じような表情を浮かべて頷いた。彼らを出し抜くには、もう、今しか残されていない。

「ナマエ、準備はいい?」
「う、…うん、大丈夫…!」
「何か全然大丈夫そうじゃないけど…」
「いや、今更ながらにこう、アンジュさんにバレたらどうしようって言う恐怖がだね…」
「本当に今更だね」

全くその通りである。
どこか遠い目をして微笑むカノンノは、どうやら腹を括ってしまったらしい。準備を整え研究室の扉の前まで来てうろたえるわたしとは大違いだ。
カノンノと顔を見合わせて、躊躇いつつも頷けば、彼女は徐に扉の鍵を開けた。かちゃん。思ったよりも音が響いて肩を震わせる。もう一度カノンノと顔を見合わせて、問うようなその視線に今度こそ躊躇うことなく頷くと、恐る恐る扉を開けた。
ホールの隅と繋がっている扉からほんの少しだけ顔を覗かせる。船内はまだ薄暗く、カーテンの隙間から淡い光が漏れているだけ。いつもアンジュさんが仕事をしている受付の机も、カーテンの隙間から注ぐ光にぼんやりと照らされていた。

「よかった…アンジュさんいないね」

そう胸を撫で下ろしたカノンノは、辺りを窺いながらそっとホールへと足を踏み入れる。わたしもそれに習うように研究室を出て、その緊張感にぴんと張り詰めた背中に続こうとして、ふと、足を止めてしまった。

「わたしの名前…」

カノンノが振り返る。わたしは構わず白く浮かび上がる受付の机の上、まるで取り残されるように置かれたそれに手を伸ばす。
それは、丁寧に纏められた書類の束だった。表紙にはすっかり見慣れたルミナシアの文字でわたしの名前が書かれている。アンジュさんの文字だ。そう思いながら手に取ったそれを開き、薄い明かりに照らしながら文字を追う。

「ナマエ、何を読んでるの?」

努めて声を潜めながらも、カノンノがわたしにそう問うた。足音が近付いて来る。わたしは顔を上げることなく、どことなく使い込まれたような跡の残る紙に書かれた文字を、間違えることなく理解した。
それは、依頼書だった。わたしがカノンノに連れられてこのバンエルティア号へとやって来たばかりの頃、アンジュさんに形だけでも書いてちょうだいと言われ、けれどこちらの文字がわからないわたしに代わりカノンノが書いてくれたものだった。チキュウへの帰還。依頼料はギルドメンバーとして働くことで支払うとする。見慣れたカノンノの文字の中にはいくつもアンジュさんの文字が書き込まれており、ほんの瑣末なことに始まり、わたしが異世界人でありながらディセンダーの力を持つことなどが綴られている。
依頼書を捲れば、次に出てきたのは報告書だった。キールさんの署名のされたそれは、わたしや地球について事細かに書かれていた。その次はハロルドさんとリタさんが書いたと思われるトランスクリプタの報告書、――こちらは恐らく始末書も兼ねているのだろうそれにもまた、アンジュさんの走り書きが残されている。
一枚、また一枚と捲るごとに胸が焼けるような思いにさせられた。わたしですら忘れていた、否、忘れようとしていたことに、こんなにも心を砕いてくれていたのだ。報告書にも走り書きにもわたしを案ずる言葉が残されている。
可能性はきっとある。あの子をこれ以上こちらの争いに巻き込むわけにはいかない、必ず両親の元へ帰してやらなければ。見慣れた彼女の文字で、そう、書かれていた。

「ど、どうしたの?ナマエ、何で泣いているの?」

束には依頼書の他にも、カノンノの文字で書かれたものがあった。慌てふためくカノンノに小さく首を降り、かつんかつんと音を立て落ちてくる涙を拭う。目尻に触れた残滓が擦れて微妙に痛い。ああ、そこはまだ柔らかな皮膚を持っているのか。どこか他人事のようにそう思った。
いつだったか。そう、あれは確かわたしの生物変化が明らかになった頃のこと。依頼を取り下げたいと申し出たわたしに、アンジュさんは考え直しなさいと諭した。それは真っ直ぐにわたしを案ずる言葉であって、わたしは知らぬ間に彼女達の優しさを踏みにじっていたのだ。
もう一度だけ涙を拭う。戸惑いながらも気遣うように、優しく背を撫でてくれていたカノンノにありがとうを囁いて、手にしていた書類の束から依頼書だけを抜き取った。

「ごめんね、カノンノ。早く行こうか」
「う、うん…」

それをどうするつもりだと、彼女は聞かなかった。カノンノは躊躇いながらも踵を返し、わたしは再び彼女の背を追いながら、握りしめた依頼書に鋭い爪を立てる。
片隅に書かれた、ばか、と言う小さな殴り書き。そう言われている内が花だよなあと苦く笑いつつおもむろに破ったその紙切れは、カノンノが開いた甲板の扉へと吹き抜けた風にさらわれて散っていく。
暁の光に透けてうすらと輝くそれは、まるで夜明けを告げる鳥の羽のように美しかった。





「さて、カノンノ」
「うん」
「まあ、何て言うか、一番最初に考えろって話だったのかもしれないけどさ」
「…うん」
「……エラン・ヴィタールまで、どうやって行こうか?」

わたし達の頭上、虚空に渦巻く異空間。恐らくあれがエラン・ヴィタールなのだろう。幾つもの牙に貫かれ痛ましい姿となった世界樹を近くに望む場所を緩やかに飛行しているバンエルティア号の甲板から、精一杯首を後ろに倒して見上げるわたし達は遠い目で確信した。これは詰んだな、と。
何だこれ、何でこんなにぐだぐだなんだ。一応これからこの一連の騒動の終幕、最後の戦いに向かおうとしているのに。いやもちろん括弧で二人で勝手に、と言う注釈を入れなければならないのは承知の上だが。だからこそこんなにぐだぐだした展開になっているんだろうけども。
二人で行こうと言ったわたしはもちろんそうだが、それに頷いたカノンノだって正直冷静ではなかった。そもそもカノンノが説明してくれたじゃないか。エラン・ヴィタールは世界樹の上空にある、と。

「……も、戻る?」

この、あまりにも気まずくてぐだぐだした空気に堪えられなかった。カノンノはエラン・ヴィタールを見上げながら小さく頷く。どちらともなく踵を返そうとして、何の前触れもなくわたしを取り巻いた赤色に目を見開いた。

「なっ、」
「侵食が…!」

瞬く間に視界が赤く染まり、皮膚がぞくりと冷たて粟立つ。身体が作り変えられることに、もう、痛みはなかった。
カノンノが赤を掻き分け手を伸ばす。その力を使えば時として意識を失うほど消耗することは、わたしが何より知っている。脳裏にフラッシュバックしたのはいつの頃の彼女だろうか。けれど青白い顔で微笑むカノンノは、もう、二度と見たくなかった。

「触らないで!」

伸ばされた手が震えた。まるでカノンノの躊躇いにつけ込むよう、赤色は音を立ててわたしへと侵入してきた。
爪先から皮膚が変質していく。身体の至るところから不思議な感覚がして、少し遅れて花が芽吹こうとしていたんだと気付く。左目から茨が頬を伝い首筋に巻き付いて、葉の形をした石が鎖骨を掠める。視界の隅でわたしの髪が見慣れた黒を失っていくのが見えて、代わりに七色の光沢がヴェールのように被せられる。最後の仕上げとばかりに視界の中にひとつ星が瞬いて生まれて、さあ、と赤が晴れていった。
再び幻想的になったわたしの世界。光の花の向こう、カノンノが泣きそうな顔で呆然と立ち尽くしている。ああ、きっと侵食が進んだのだろう。研究室で見たよりもずっと、ずっとずっとあの子に近く。人間離れをした姿に。

「随分と早いお目覚めなのねえ、ナマエ」

――いやに可愛らしい声が夜明けの空に響き、わたしとカノンノに戦慄が走った。
振り返りたくなかった。どうしてもどうしても何があっても絶対に振り返りたくなかった。しかしホールへ繋がる扉を背にしているわたしと違い、振り返るまでもなく彼女の姿を視界に入れたカノンノが真っ青な顔で震え出したのを見て、ようやく腹を括った。
案の定、彼女はぴんと背筋を伸ばしてそこに佇んでいた。聖女の如き微笑みをたたえ、しかし瞳には刃より冷たい怒りを浮かべて、我らがリーダーはそこにいた。

「あ、あっ、…アンジュさん……」

アンジュさんはにっこりと、聖母と呼んで差し支えない慈愛の微笑みを浮かべている。しかし不思議とその背にはオルタータ火山を背負っていた。今にも噴火しそうだなあ、と、どこか他人事のように思う。
一番後ろ、ユーリさんは呆れて物も言えないどころか言いたくもないとでも言いたそうな顔をしていた。彼女の右隣、アスベルさんは呆気に取られ何も言えないようだがしかし何かを言わねばいけないけれどやっぱり何も言えない様子だった。彼の斜め後ろ、スパーダさんはもうこいつら何を言おうと無駄なんだろうけどせめて一言だけでも言ってやりたいと言った風だった。彼の隣、リオンさんは言いたいことは山ほどあるが逆に言いたいことがあり過ぎて何から言えばいいのかわからずにいるようだ。
訪れるかと思われた気まずい沈黙は、しかしアンジュさんが鋭く手を叩いて打ち払う。そしてまたまたにっこりと、女神もかくやの微笑みを浮かべ、どこまでも優しい声で囁いた。

「さて、まずは事情を聞かせてもらいましょうか。ね、ふたりとも」

どうやら噴火するか否かは、これからのわたし達にかかっているらしい。
アンジュさんの隣に浮くニアタは、ふ、と何処か楽しげな声を漏らした。


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