とりあえずわたしはまだ目を覚ましていないことにして、カノンノは看病のため研究室に泊まり込むと言うことをアンジュさんに報告しに行った。仮にわたしとカノンノだけでエラン・ヴィタールに向かうとしても色々と準備は必要だ。報告のついでに色々と、部屋に置きっぱなしのわたしの杖とか、回復アイテムとか、諸々を用意してまたここに戻って来てくれる手筈になっている。ここから出られないわたしにそれを手伝うことは出来ないのが非常に申し訳ないけれど、わたしが目を覚ましていることがバレたら終わりである。わたしはカノンノにも言われた通り再びベッドに潜り込み、大人しく寝たふりをして待つしかなかった。

どれくらいそうしていたのだろう。時計を見れば深夜と呼んで差し支えない時間なのに、不思議な程に眠気は訪れない。カノンノはまだかな。そう思ってため息をこぼした、その時だった。
静かに扉が開かれる。暗い研究室内に注がれた一条の淡い明かりと、そこに浮かび上がる人影。それは明らかにカノンノじゃなかった。
わたしは慌てて瞼を閉じて息を抑え、寝たふりを続行する。扉が閉まれば再び研究室は真っ暗だ。その暗闇の中、迷いなく真っ直ぐにこちらへと近付いてくる足音は一体誰のものなのだろう。
すぐ側で空気が揺れる。心臓が一際どくんと大きく跳ね上がり、一瞬だけ息が詰まるも、ひたすら寝たふりを続ける。誰だ、一体誰なんだ。せめてそれだけでも知りたくて必死に研ぎ澄ませていた耳に、掠れた囁きが届いた。

「…ナマエ」

…あれ。何だかよく聞き覚えはある声だが、しかし、こんなに弱々しい声は初めて聞くような。いや、もしかしたら全くの別人と言う可能性も。
涼しい顔で寝たふりを続けながらも悶々と悩んでいると、ふと、頬の辺りに何かが触れた。ぴくりともしなかったわたしを褒めてほしい。触れた何かはどうやら指先のようで、まるで慈しむようにそのかわいた指先が頬を撫でる。くすぐったい。けど、心地好い。
ぎこちなかった呼吸が自然と安らいでいく。すると不意に頬を撫でていた指先が離れ、代わりに大きなてのひらがくしゃりと、乱れた髪に差し込むよう添えられる。
あれ、と思ったのは二度目だった。吐息が近い。添えられたてのひらが熱い。しかし、左目だった花へ掠めるように触れた何かはあまりにも冷たくて、思わず指先がシーツを引っかいてしまった。
吐息が離れていく。え、ちょっと待って、どういうこと。心臓はばくばくとうるさいし、つい先ほど引っかいたシーツには傷が残っているだろう。最後に指先に絡み付いたわたしの髪を優しく梳いて、てのひらが離れていった。
まるでタイミングを見計らったかのように扉が開く音がしたのは、その時だった。すぐ側にいるその人が振り返ったのを空気の揺れで気付く。遠くから驚いたような声が聞こえた。

「ユーリ、どうしてこんなところに」
「それを言うならお前だって、どうしてこんなところに来たんだよ。なあ、アスベル」

増えた、増えやがった。と言うかやっぱりユーリさんだった!らしくない声だったから別人だと信じたかったのに!
これは何が何でも寝たふりを気付かれてはいけない。さもなくば最悪の場合死に至る…わけではないけど。気分的にはそれくらいの意気込みで。
アスベルさんは何故か言い訳のようなものを口ごもりながら扉を閉め、再び真っ暗になった研究室に入って来たようだ。こちらへと近付いて来る足音はユーリさんと同じくすぐ側で止まり、彼が近くにいることを、揺れ動いた空気が教えてくれた。

「…まだ、目を覚ましてないんだな」
「…ああ」

すみませんばっちり起きてます。
とは言うことも出来ず、何でもいいから早く出て行ってくれと念じながらひたすら寝たふりを続ける。するとふと、アスベルさんが吹き出すように笑ったのを、空気の揺れで気付いた。

「それにしても、さっきは驚いたよ。ユーリがアンジュに頭を下げるなんてさ」
「俺もお前も、リーダーに黙って色々やり過ぎたんだよ。本当ならカノンノみたいに今回の仕事から外されても文句は言えねえ身分だからな」

驚くほどじゃねえだろ。そう言ったユーリさんの声には微かに笑いが含まれていたけれど、やっぱりわたしのせいで、と勝手な痛みが込み上げる。
会話から察するに、どうやらユーリさんを達は謹慎処分を免れたらしい。それだけは本当によかった。本当に、本当に。

「それもそうか。けど、カノンノは…正直、今回の仕事から外されてよかったと思う。彼女も彼女でナマエと同じく無茶ばかりするし。…だからってまさか、リタと一緒にあんな無茶をするとは思わなかったけど」

わたしもです。
自分のことを棚上げにして、心の中だけでアスベルさんに同意する。って言うかこの二人はいつまでここにいるつもりなんだろう。そろそろ寝たふりもきつくなってきたんだけれども。

「…ユーリはどうして、ここに来たんだ?」
「同じことを何度も言わせるなっての。…それを言うならお前もどうしてここに来たんだ、アスベル」
「そ、それは…。って、俺が先に聞いたんだぞ」
「そうだったか?」

仲がいいのはよろしいことなんですが、そう言うのは研究室の外でお願いします。
一度きついと思ってしまうと、ただ寝ているだけだと言うのにものすごくきつくなってしまう。瞼がぴくりと震える。釣られるように抑えていたはずの呼吸が乱れ、苦し紛れに寝返りでもしようかと思い始めた頃、ようやく待ち侘びた声が聞こえてきた。

「ユーリさん、それにアスベルさんまで…!」

カノンノが戻って来てくれたのだ。どこか慌てたような足音を立て駆け寄って来るカノンノに、内心ほっと安堵のため息をこぼした。

「二人共、どうしたの?ナマエのお見舞い?」
「まあ、そんなところだ」
「そ、そっか」

忙しない物音はカノンノのものだろうか。何をしているのだろうと思っていると、アスベルさんが不思議そうな声を上げる。

「カノンノ、どうして二人分の食事を持って来たんだ?」
「あっ、…え、ええと…ナマエが目を覚ましたら一緒に食べようと思って。その、寝たきりで全然食べてないから、お腹空いてるだろうし…」

カノンノの動揺が手に取るようにわかる。彼女のためにもこのまま寝たふりを貫き通さなければならないのは最もだが、何だか一人で気まずい思いをさせてしまって非常に申し訳なかった。
そうか、と頷いた様子のアスベルさんとは対照的に、ユーリさんが口を開く。

「んじゃ、それは何だよ」
「それ?」
「ナマエの杖、何で持って来てるんだ?」

カノンノが口ごもる。あっこれはやばい。そう思って二人の視線がカノンノに向けられているのをいいことに、んん、小さく声を上げて寝返りをした。
少しわざとらしかっただろうか。背中に突き刺さる視線にじわりと汗が滲む。しかし、どうやら助け舟にはなったようだ。

「ごめんなさい、アニーから安静にさせておくように言われてるの。だから、その…」
「悪い、そうだよな。病人の前で騒がしくしてすまなかった。…ナマエが目を覚ましたら教えてくれ、カノンノ」
「二人揃って大人しくしててくれよ。…それじゃあな」

足音が遠ざかっていく。扉が閉まる音がして、二人の気配が完全になくなったのを確認して、カノンノの安堵のため息を聞いてから。飛び起きた。

「っぷはー!し、死ぬかと思った…!」
「わっ、私も生きた心地がしなかった…!」

飛び付いてきたカノンノを受け止め、二人して泣きそうになりながら互いの健闘を讃え合った。何なんだもう、何だったんだ。このたった数分でものすごい疲れた。アスベルさんはともかくユーリさん怖かった。
…と、言うか。ユーリさん、あの人、さっき。

「さっき食堂に寄った時にね、色々話を聞いて来たの。とりあえず食事をしながらでも、…どうかした?」
「えっ、な、何?」

カノンノはきょとんと首を傾げる。

「顔、真っ赤」


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