呼び出しは唐突だった。だから、何の覚悟も心構えも出来ていなかった。

「ねえ、ナマエ。ディセンダーのドクメントを転写させる実験の準備が出来たからって、ハロルドさんが呼んでるよ」

研究室へ来てだって。そう言うカノンノに心臓が締め付けられた。
正直に言ってこんなに早く準備が終わるだなんて思っていなかったのだ。だから、本当に何も。どうすればいいかなんて、考えられていなくて。
カノンノがわたしの手を取る。見上げた彼女は、緩く眉を下げ微笑んでいた。

「大丈夫だよ。二人を信じて。ね?」
「……で、でも…」
「とにかく、一度研究室に行って話を聞いて来ようよ。それからのことは、その後考えよう?」

優しい、けれど力強いカノンノの言葉に促され、躊躇いつつもその手を握り返した。
研究室の分厚い扉の前、隙間から漏れる絶叫に二人して首を傾げる。恐る恐る扉を開けてみれば、途端に鼓膜をつんざいた悲壮な声に身を竦めた。

「被験者にするって、おい!俺はゴメンだぜ!」
「何よ、あんたみたいに生命力だけが強くてしぶとい奴が役に立てる唯一の機会なのよ。ほら、さっさとそこに立つ!」
「っナマエ、カノンノ!助けてくれ!リタに殺される!」

叫び声を上げていたのはどうやらロニさんだったらしい。わたし達の姿を見付けすぐさま駆け寄って来たと思いきやわたしの背中に隠れてしまった彼に、リタさんが思いっきり舌打ちをした。
研究室の中央に鎮座した機械。これで、ディセンダーのドクメントを転写する。ごくりと喉が鳴った。どうしよう。どうすれば。わたしの頭の中は、そんな言葉でいっぱいだった。

「連れて来てくれてありがとね、カノンノ。んで、ナマエ。早速実験に移りたいんだけど、被験者がいなくってねー」
「…やっぱり最初に言った通り、あたしが被験者になるわ。その方が色々と安心でしょ」
「駄目よ。ドクメントの転写作業は、あんたの力も必要なの。私一人じゃ制御出来ないもの」
「そうは言っても…」

リタさんが口ごもる。彼女らしくない仕草にハロルドさんが首を傾げた。
被験者がいない。それはわたしにとっては非常に好都合で、思わず声を上げた。

「あの!」

一斉に視線がわたしに向く。それすら好都合だと、必死になって訴えた。

「もしかしたら被験者は大変なことになるって…危険だって、ハロルドさんも言ってたじゃないですか!だったらわざわざそんな危険をおかしてまでやる必要は…!」
「何かを得るのに、それなりのリスクがあるのは当たり前でしょう?何も傷付けずに望みを叶えようなんて悩み、心が贅沢だから出来るのよ」

ぐっ、と、続けようと思っていた言葉を堪える。
悔しい。本当のことを言えない自分が、それでもと続ける言葉を思い付かない自分が、ひたすらに悔しい。きつくきつく唇を噛み締める。そうじゃない、そうじゃなくて。違う。わたしは。

「…あのっ、」

そう声を上げたのは、カノンノだった。
緊張した面持ちのカノンノは、わたし達の視線にたじろぐことなくその胸に手を置く。小さく深呼吸をして、言った。

「私がやるよ。駄目、かな?」

息を呑む。何度目かわからないデジャヴュが、わたしの脳を揺らした。
ロニさんが焦ったような声を上げ、掴んだカノンノの肩を揺らす。

「待てよ!失敗したら、死ぬかもしれねえんだぞ!」
「わかってる。…でも、大丈夫だよ。だって、リタとハロルドさんが作った機械だもの」
「…っおい、被験者は人じゃないと駄目なのか?他にもっと方法探せねえのかよ!」
「同じことを何度も言わせないで!」

それは、悲鳴のような。彼女らしからぬ声にロニさんがたじろぐ。そんなリタさんの背中を叩き、ハロルドさんは努めていつも通りの飄々とした笑顔を浮かべた。

「助かるわ〜。じゃ、この天才を信じて任せなさい!」
「うん」

カノンノが力強く頷く。呆然と立ち尽くすわたしの手を引き、微動だに出来ないわたしに微笑んだ。

「私は平気。ナマエと繋がるだけだもの、恐くなんかないよ」

情けなく、彼女の名前を呟くしかなかった。
心臓が痛いくらいにうるさい。大丈夫、と繰り返される言葉が焦燥感を煽った。どうしよう。どうすれば。どうすればカノンノを止められる。彼女はわたしが生物変化を起こしていることを知っている。ディセンダーの力が、ドクメントが、ジルディアのドクメントに侵食されていることを知っている。
知っていてどうして、どうしてそんな、笑っているの。

「じゃあ、始めるわよ。二人でトランスクリプタに乗って!」

ロニさんが何かを言いたげに、歯痒さに唇を噛み締め。わたし達をトランスクリプタとやらに押し込んだリタさんは、附に落ちないような悔しそうな顔をしていた。
ふおん、と機械が起動する音。リタさんがわたしに両手を翳した。心臓が痛い。いっそ死んでしまいたかった。
一つのドクメントが、彼女の手により展開される。

「……っ、」

目前をぐるりと巡る、微かに黄色の部分が残された赤色のドクメント。元の色どちらかなんてわかりやしない。元から赤色だったような、そんな錯覚すらしてしまう。
ロニさんは驚いたような顔をしたが、リタさんとハロルドさんはあからさまに顔色を変えた。頭のいい彼女達なら幾通りの可能性を思い付いたのだろう。そんな泣きそうな顔をさせたくなかった。両手で顔を覆う。
機械は止まらない。鳴り響く電子音に鼓動が急かされ、焦燥感は止まらない。大丈夫。カノンノはそう言った。信じて。ハロルドさんはそう言った。何かを得るのにリスクがあるのは当たり前。リタさんはそう言った。
深く震える息を吐く。駄目だ。違う。そんなのは違う。こんなのは違う。わたしの責任をカノンノにまで背負わせてしまうなんて、そんなの。
ぱちり、ばちり。どこかで何かがショートする音。

「…ナマエ…?」

カノンノがわたしを呼ぶ。問いかけている。
どうして、と。

「…っショートするわ!二人共、離れて!」

ばちりと一際大きな音。割り込んできたロニさんに抱えられたわたし達は、そのまま彼と一緒に床に飛び退かされる。不快な電子音を立て続ける機械に顔を上げようとすれば、わたしの頭を押さえる大きな掌に遮られた。
一瞬の沈黙が決して広くはない研究室を包む。
爆発音が船中に響いたのは、その直後だった。


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